人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

企画展「天地人の時代」~長谷堂合戦図屏風

 企画展「天地人の時代―ふくしまと直江兼続―」に、写真ではあるが長谷堂合戦図屏風が展示されていた。
 これは、平野の古舘を「岩井備中守館跡~古舘」として整理した時に、この館の主とされている方とのかかわりで、興味がわく。
 それは、直江山城守兼続が、慶長5年(1600年)に長谷堂城(最上氏)を攻めた時に、上泉主木、岩井備中、松本幸之助等の猛将が討死したという情報とのかかわりだ。ただ、残念ながら、この屏風には、岩井備中氏は描かれていない。

 県立博物館は、フラッシュ禁止だが、この企画展では、写真撮影そのものが禁止だ。展示目録も配布されないので、なかなか整理しにくい。最上義光歴史館収蔵資料らしいので検索して整理しておく。
a0087378_301524.jpg
 この博物館の配布資料をダウンロードした写真を貼り付けた。

 この屏風は江戸時代中期に秋田の学者戸部一憨斎正直が描いたものとのこと。
 鉄棒を持って戦う最上義光、鉄砲隊に守られた直江兼続、両軍の有名な武将たち、そして、身分の低いさむらいたちの様子を描いたものという。

 最上義光歴史館の配布資料によると、描かれているのが、「長谷堂合戦」。
 慶長5年(1600)上杉景勝重臣直江兼続が、2万余りの軍勢で徳川方の最上義光を討とうと山形に攻め入った。

 屏風右側に描かれているのが、上杉軍は3回ほど総攻撃をかけたが、城は落ちず、戦闘が約半月もつづく様子。城を守っていたのは志村伊豆守光安を主将とする最上の武士たち。守る最上軍は1万たらずの劣勢だった。
 長谷堂城が落ちれば、山形も戦場になってしまうので、義光はこの城を守るために全力をあげる。親せきの仙台伊達政宗にも加勢をたのむ。

 屏風左側に描かれているのが、関ヶ原の合戦結果が届き、上杉軍は囲みをといて退き、それを最上軍が追撃する様子。

 直江軍は、この前に、白鷹山の北の畑谷城をおそい、城主江口五兵衛光清以下三百数十名を全滅させている。そして、この山形城の南西6㎞のところにある長谷堂城に押し寄せたという。
 
 福島民報「戦国を駆け抜けた智将~直江兼続とふくしま⑧」というコラムの上杉謙信の遺骸を会津に運ぶくだりにも、この舘主岩井備中守が登場していた。
  
 慶長3年(1598)8月2日、景勝の後、越後に入部した堀秀治は、謙信の遺骸を会津へ移すよう景勝へ要請した。景勝は、岩井備中守と山岸中務少輔、広居又五郎を春日山に派遣し、遺骸を守っていた大乗寺、妙勧院、宝幢院と手明組の百人らで会津へ運ぶように命じている。

by shingen1948 | 2009-02-12 04:21 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)