地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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天地人の時代~佐藤新右衛門

 企画展「天地人の時代―ふくしまと直江兼続―」の開催に関わって、福島民報が、展示紹介記事を載せている。この記事は、展覧会場でも配布される。
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 その中で、整理したこととかかわる興味は、直江兼続知行充行状(栗花信介氏蔵)だ。 
 小沼貞長に本宮の土地を与える旨の上杉家の免状同様、署名者は直江兼続だ。

 記事によると、伊達郡西根郷内の逃亡農民を帰住させた恩賞として佐藤新右衛門に100石を与え、今後とも農民が支配に従うように努めることを命じているという。
 自分の散策と佐藤新右衛門とかかわるのは西根堰だが、この堰の事業は、慶長8年(1603)ということなので、それ以前の佐藤新右衛門と上杉家とのかかわりに関するでき事ということになる。


 今まで確認してきた佐藤新右衛門の経歴の中で、このことを整理してみる。

 彼が誕生したのは、天正元年(1573)で、仙道福原の戦い出陣が17歳ということだから、その年は1590年ということになる。
 松川の合戦で功を挙げて250石を受けたのが、慶長7年(1602)である。計算すると、この時29歳だろうか。
 この直江兼続知行充行状(栗花信介氏蔵)は、その次の年ということで、慶長8年(1603)30歳の時の出来事ということになる。ここで、100石を恩賞として頂いたということだ。

 この事実は、高湯温泉物語で、上杉氏時代に、年貢取り立てが厳しくて仙台に逃げる農民が多かった旨の記述があるが、それをおさえた恩賞とも受け取れる。
 なお、西根堰下堰開削が、元和4年(1618)だから44歳ということになる。民衆を大量に動員して新田開発を積極的に推し進めたのは分かるが、純粋に踏みとどまった農民を救済しようとしたのか、更なる石高確保のための藩への奉公の気持ちなのかは定かではない。

 〈このことと関わる散策の整理〉
 西根堰~湯野の樋越しから桑折まで[2009-01-11 ]
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 無為山「康善寺」 [2009-01-07]
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by shingen1948 | 2009-02-11 07:00 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)