地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島城⑤の本庄繁長

 福島の本庄繁長は、老齢期になってのかかわりだ。
 1613年岩代福島城で75歳で亡くなり、墓所は長楽寺だ。 法名は、憲徳院殿傑伝長勝大居士とか。
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 この寺は、東の外堀の土塁の内側の位置にある。今回は、土塁の位置の確認もあって、写真は門前の景色のみだったので、先の記事の門も貼り付けておく。

Mapionおおよその位置


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 ここには繁長の木像が安置 されていて、毎年九月に行われる供養祭には一般公開されているという。
 確かめてみると、軍記物ファンの方々には、結構人気のある方のようだ。

 この寺には、先に奥州街道の確認で来て、本庄繁長の墓所も確かめている。ただ、この時の興味は、自由民権運動にあって、「福島の明治の動乱をみつめる長楽寺」として整理している。
 
 上杉家では、「東国太平記」という軍記物の内容を、「松川合戦」の通説として語り、「謙信以来の本庄繁長の武勇を知らしめた戦い」としてその武功を讃えているということだ。
 その概略は、以下のようだ。

 慶長6年4月26日、2万ばかりの大軍を率いて伊達政宗軍が侵攻してきた。
 初め劣勢だった上杉軍は、本庄繁長の奇策により、信夫山の後背から須田長義軍と共に伊達軍を挟撃した。
 小荷駄隊を撃破され、陣幕まで奪われた伊達軍は浮き足立ち、更に福島城城門から出撃した 本庄繁長軍が伊達軍の中央本陣深く切り込んだため、伊達軍は総崩れとなった。
 この戦いで、上杉側は首級1290余りを上げる大戦果を上げた。
 この大敗北に伊達政宗は僅か10騎ばかりの供で、白石城へ逃げ帰った。

 「松川合戦」そのものについては、双方の思惑があって、伝わり方もいろいろらしい。
 この合戦については、信夫山を散策した時(2007年の11月末)にふれているが、伊達政宗側からの整理だった。
 上杉側から見た配置を確認しておく。

 この地は、祖先の領地を取り戻そうとする伊達政宗の侵攻に備える重要な要の地である。
 福島代官には、はじめ水原親憲が、関ケ原の戦いが迫った慶長5年(1600)には安積盛山(郡山守山)から本庄繁長が1万1千石で移ってきて、その後本庄政長が城代として在城する。
 梁川は須田長義、保原は大石綱元、後に小越清道、宮城には岩井信能、大森には栗田国時、後に芋川元親などの武将が入っていた。

 元和元年(1615)江戸幕府によって一国一城令が出された際も、福島城は伊達政宗を抑える要地として、寛文四年(1664)に幕府の天領になって破却されるまで本庄氏を城代として置いていたという。
 寛文4年(1664)の更なる減封によって、信夫の里を去る時点の話だが、本庄家は鮎貝(山形西置賜郡)米沢に移る。
 しかし、多くの家臣はこの地で帰農し、今も腰浜・鎌田・舟戸にはその子孫が残っているという。
by shingen1948 | 2009-02-02 05:21 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)