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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島城④~西の郭土塁

 天地人とのかかわりで、上杉期が気になるところだが、福島城の散策では以下の案内情報しか得られない。
 文禄4年、秀吉の命で福島城は取り壊され、その後当地は、上杉氏(1598~1664)、本多氏(1679~82)、掘田氏(1686~1700)が入部し、……。

 鈴木氏は、この時期には、西の郭は存在したと推定しているようだ。その根拠は、松川の合戦で6000人の城兵が籠っているということがあり、それが可能なのは、西の郭の存在ということがあるらしい。
 文献でも、上杉期に「西の木戸」「西の門」が存在していることからその存在は推定できるようだ。

 福島城はかなり破壊されていて、現存している遺構は少ない。そんな中、いつの期かは分からないが、西の郭を守る土塁があるという。
 それを確かめるのに隈畔を南に向かう。
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 県庁へ入れる道があって、その坂を上って行くと、駐車場になっている。そこにある土手に、西門跡南土塁という案内板が建つ。

Mapionおおよその位置


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 案内板に、阿武隈川沿いまで延びていたとの説明と、写真がある。


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円で囲まれている部分が、土塁の様子だが、渡し船も写っていて、こちらも興味深い。


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 土塁の上から、阿武隈川を望む。


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土塁は、結構奥まで延びていて、イメージしやすい状態で保存されている。


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 この土塁の奥に、石灯籠と石塔がある。多分、庭園としてこの土塁を使ったのだろうか。

 この土塁、西門跡南土塁とのことだから、その西門近くということか。


 上杉期の福島城を、福島のあゆみで整理しておく。

 会津領主は、蒲生秀行(氏郷嫡男)が慶長4年(1598)に宇都宮城へ移ると、越後国春日山城から上杉景勝が移ってくる。福島も含め信達2郡はじめ中通り一帯も上杉氏の領地になる。
 支城は、蒲生時代同様に家臣の主たる武将を城代として配置して治めている。

 福島城には、はじめ水原親憲が、関ケ原の戦いが迫った慶長5年(1600)には安積盛山(郡山守山)から本庄繁長が1万1千石で移ってきて、その後本庄政長が城代として在城する。
 福島城代は、祖先の領地を取り戻そうとする伊達政宗をおさえる重要な要の地である。

 天地人の直江兼続も最上軍に対して善戦していたが、繁長は福島城で伊達軍を阻止している。結果的には、関ヶ原の本戦では西軍は敗れてしまったために上杉家は120万石から30万石への減封を受ける。
 この時、繁長も3300石に減俸されるが福島城代を務めて、重臣として直江兼続とともに家中の再建にあたったはず。
by shingen1948 | 2009-02-01 04:57 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)