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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島城(杉妻城・大仏城)

 案内板によって、本丸の位置が違うのは、変遷によるのかもしれない。
 鈴木氏がいう位置は、この城の原点と推定しているようだ。
 この城のスタート時は、 杉妻城あるいは大仏城と呼ばれてきた。杉妻寺の大仏堂が城内にあったためと言われている。
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 紅葉山公園にある大佛城跡出土宝塔は、その昔、大佛城の名の起こりを示す重要な文化財と考えられている。
 笠石は、後に復原されたもののようだが、「弘安6年(1283)」の銘文があるとのこと。
 明治初期に、福島城跡の県庁西庁舎南側土塁の付近から出土したものとのことだ。

 左の石塔は鎌倉時代の板碑で、大正13年に松齢橋工事中河底から発見したもので、これも杉妻寺大佛城にゆかりのあるものとみられている。
 
 案内板は、ここまでの紹介だが、鈴木氏の論文の中では大佛城発祥の大佛殿があったとしている。時代は、大日如来や供養塔の存在から鎌倉時代にさかのぼることが分かるとする。
 多数の板碑群の出土から寺院の境内と居館が隣接か同居していたとして、次の板碑を紹介している。
○ 宝暦年中二の丸台所土中より、大佛と縁のある到岸寺へ
○ 本丸堀溝土手中より、文永10年阿弥陀の梵字古碑出土
○ 本丸東奥稲荷近くから胎蔵界大日の梵字古碑出土
○ 本丸東門の東大隈川端の石垣の中に梵字のある石多数。洪水のたびに崩れて水没
○ 二の丸殿中裏通堀端に梵字の大石古碑
○ 蓮掘への給水掘りに石橋二枚、うち一枚は釈迦の梵字古碑
○ 大手門東の石垣中大石に、金剛界大日の梵字



大佛城跡出土(宝塔)説明内容

福島県指定重要文化財「大佛城跡出土(宝塔)」

 この宝塔は、明治の初め、県庁西庁舎南の土塁近くにあったものです。
 円筒形の塔身に梵語で、阿弥陀如来を現し、反花座(かえりかなざ)・雄蕊(おしべ)を線刻し「弘安6年癸未(みずのとひつじ)4月20日幸子(こうし)□□(不明)」ときざまれています。
 (1283年)「弘」の字を「※方にム」とし、梵字の彫り、端正な字体は鎌倉時代特有のもので、笠石、請花宝珠(うけばなほうしゅ)は後で補ったものでする
 この宝塔は墓しるしに建てられたもので、福島城の前身杉妻寺という寺を城とし、眞淨院(しんじょういん)にある延慶3年の板碑もこの地にあったものです。宝塔は平泉願成就院(がんじょうしゅいん)(藤原時代)につぐ古いもので、大佛城の名の起こりを示す重要な文化財です。なお、左にある石塔は鎌倉時代の板碑で、梵字(釈迦如来)のみで年号はありません。大正13年、松齢橋工事中河底から発見したもので、やはり杉妻寺大佛城にゆかりのあるものとみられます。

 福島県

Commented by 山田久夫 at 2009-05-29 10:23 x
「北条 宣時(ほうじょう のぶとき、暦仁元年(1238年)- 元亨3年6月30日(1323年8月2日))は、鎌倉時代の武将。大仏宣時(おさらぎ のぶとき)とも称される。父は大仏流北条氏の祖である大仏朝直(北条朝直)。法名は忍照。子に大仏(北条)宗宣・貞房などがいる。」
と云う記述を見つけました。大森北館供養塔と呼ばれる板碑に
建治元年の年号が見られ、北条時宗時代の福島地方様子をうかがい知れるのではと思います。

1277年(建治元年)引付頭人になる。1287年(弘安10年)に執権北条貞時の連署を務める。その後、陸奥守、遠江守などを兼任。
Commented by shingen1948 at 2009-06-04 13:24
 情報ありがとうございます。
 藤原文化を探っているうちに、「奥のほそ道」が気になって、そちらを散策していて、遅れました。
 大仏の呼称・陸奥守が気になるキーワードでしょうか。
 
 多分、権力的には陸奥守等が上位なのでしょうね。
 ただ、散歩人としては、知識不足で、実際にこの地に居座った方しか実感ある想像が難しいです。
 そういう意味では、諸々の勢力関係はあるのでしょうが、この地の東北文化代表佐藤氏、そして、それを打ち破ってやってきた伊達氏の単純構図しかとらえていません。その結びつきの中でとらえているのが実際です。
 南北朝の霊山も、いろいろ仮説はあるようですが、伊達氏とのかかわりでとらえています。
 
 ただ、こういった情報が集約されて積み重なると、新たなことがみえてくるかもしれませんね。
 
  
Commented by 犬連れ at 2009-12-03 21:02 x
奥州藤原一族の信夫庄司、地頭とも呼ばれた佐藤季春は陸奥守として下向した藤原師綱の公田検注に抵抗して打首になっています。この時代の公田とは国衙領を特に示す言葉だそうです。
この事からも国衙領の近くに国衙があったと思われます。
刈田以北は軍糧、信夫以南は国廨糧にする。
724年に蝦夷の反乱に対して多賀城を設置。
伊達稙宗が陸奥守に補任されて以後、国衙領の信夫郡が伊達氏の支配下になったと仮定すると、戦乱なく信夫郡を領地かした謎が解けると思います。
by shingen1948 | 2009-01-30 19:40 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(3)