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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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岩井備中守館跡~金剛院

 井野目堰を探ったことを思い出すため、平野辺りをあちこち歩きまわった。
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 金剛院の寺の門柱を見て、ここに岩井備中守昌能の館跡という標識があるのを思い出して立ち寄った。

 寺の北側は、舘屋敷という地名になっている。ここに、岩井氏を中心とした屋敷があったということだろうか。
 写真だけとって、そのままにしていたら、昨日新聞を見ていて、岩井備中守の名前を見つけた。
 福島民報「戦国を駆け抜けた智将~直江兼続とふくしま⑧」というコラムの上杉謙信の遺骸を会津に運ぶくだりだ。
 慶長3年(1598)8月2日、景勝の後、越後に入部した堀秀治は、謙信の遺骸を会津へ移すよう景勝へ要請した。景勝は、岩井備中守と山岸中務少輔、広居又五郎を春日山に派遣し、遺骸を守っていた大乗寺、妙勧院、宝幢院と手明組の百人らで会津へ運ぶように命じている。

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 この地区では、岩井備中守は上杉氏の家臣であり、この地を治めていたと考えている。そして、この岩井氏が慶長3年(1598)に、岩井山金剛院を建てたと考えられている。

 岩井家は、この地が徳川の領地になると米沢に帰ったという。
 それは、信夫の里が、幕領になった時と思われるので、万治元年(1658)で、上杉氏は減封されて、この地を失った時だと推定される。
 この時に、多くの家臣は、領主が米沢に引き上げた後も、帰農してこの地に留まったという。リストラで留まらざるをえなかったというのが、正しいかもしれない。
 その帰農した安達家・中村家・阿部家・清野家が、この金剛院を守っていると言い伝えられている。
 そういえば、○○家本家という表札をかけているのを見たことがある。
 「天地人」の物語で話題になることはないだろうが、この地区では、「天地人の歴史」が息づいている。

 この寺の北側が舘屋敷という地名で、この土地の西の畑の中に、堀跡があるという。北側には、「舘ぼり」と呼ぶ堀があるという。
 また、この西手に「古舘」があって、これが、岩井備中守の居城という言い伝えもあるという。
 
 こちらの興味も深まる。
by shingen1948 | 2009-01-27 04:53 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)