地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

大鳥城跡を訪ねる

a0087378_8591849.jpg
  一の砦から、本丸広場に出て、本丸広場から、一の砦を見ると、このように見える。


a0087378_901823.jpg
 本丸とされるところは、広場になっている。


a0087378_945395.jpg
 この広場の奥、方向的には西手に、大鳥神社の社、佐藤基治一族追善供養塔、大鳥城誌記念碑等々各種の碑が建っている。


 大鳥城誌は、昭和の文豪吉川英治氏の撰文で、昭和33年11月に建立したとのことが、駐車場の案内板にその書かれている内容が説明されていた。

a0087378_931442.jpg
この地は源平時代の歴史に、また古くから謡曲、演劇、平家琵琶などにも語り継がれて、有名な湯ノ庄司佐藤元治の子、佐藤継信、忠信兄弟の生まれたところです。ふるさとの城です。その頃奥州平泉の藤原三代の文化もまたみちのくの花でした。佐藤氏は世々平泉の藤原一族として善くこの地方を治め、湯ノ庄司元治が、ここ丸山の頂きに祈願の白鳥を埋めたのを由来として、大鳥城と呼ぶようになったのです。……。


福島飯坂ライオンズクラブの案内板では次のように説明する。

大鳥城跡
大鳥城(鵬城)は、西に連なる 尾根を切断して、空隍(ほり)とし土塁を築き山腹に清水井戸を掘り構築された典型的な山城で、白鳥を埋めて守護神としたことから生じた名である。
12世紀の初め、藤原氏が奥州を支配し平泉に都城を構え、その一族の佐藤氏が信夫荘の荘司となりここに居館を構えた。親族の西行法師が陸奥を旅しこの地に安らぎを求めた頃は小平泉を呈し賑わいをみせていたといわれている。城主元治の子継信、忠信は源義経に従って出陣、継信な屋島にて義経の身代わりに戦死、忠信は吉野山にて義経一行を救うも捕われて京都にて自刃、城主もまた分治5年8月、義経追討の鎌倉勢を石廊坂に迎撃し戦死、同月13日落城。今は館跡をはじめ城戸・矢庫・空豪一・二・三の取りで・清水井戸等の跡に往時を偲ぶのみである。城主一族の墓所は、対岸(鯖野)の医王寺にあり俳聖芭蕉の句碑がある。
笈も太刀も5月に飾れ紙幟
 昭和57年福島飯坂ライオンズクラブ

 「河北新報」(2005/10/20)は、中世の原図をもとに模写したと思われるこの城の絵図が見つかったと伝えている。これは、本多家の家臣だった中根家(大分市)が所有していたもので、 福島城にいた延宝7年(1679)から天和2年(1682)の間に描かれたと思われるとのこと。
 そこに描かれた図によると、ここは本丸の東側に二の丸、三の丸が連なる連郭式の城とのことだが、舘ノ山公園として公園化された整備とうまく重なっているのか気にはなる。




大鳥城誌・大鳥城絵図発見情報等

 大鳥城誌:吉川英治氏の撰文の全文

 この地は源平時代の歴史に、また古くから謡曲、演劇、平家琵琶などにも語り継がれて、有名な湯ノ庄司佐藤元治の子、佐藤継信、忠信兄弟の生まれたところです。ふるさとの城です。その頃奥州平泉の藤原三代の文化もまたみちのくの花でした。佐藤氏は世々平泉の藤原一族として善くこの地方を治め、湯ノ庄司元治が、ここ丸山の頂きに祈願の白鳥を埋めたのを由来として、大鳥城と呼ぶようになったのです。
 治承4年、源頼朝の旗揚げを知ると、九郎義経は奥州の遠くからただちに平家追討の陣
へ馳せつけました。途中、佐藤継信・忠信の兄弟もこの地で義経と主従の魡に結ばれたのです。そして屋島の浜合において戦い、兄の継信は主の矢盾になって討死をとげ、弟の忠信もやがてまた義経が不遇に落ちて吉野の奥に隠れ入った後、主に代わってむらがる敵中に消え去りました。
 次いで文治5年8月、義経の奥州落ちを追って鎌倉の大軍が差し向けられるや、二児を失ってもまだこの地に拠って古武士の気骨を持していた兄弟の父湯ノ庄司元治は、一族をひきいて石那坂に頼朝の大軍をはばみ、目覚ましい戦死をとげました。このことは吾妻鏡にも記録されています。
 旅すがら昔の人の心ばえやらもののふのあわれを感じては、よく夏草の跡へ句など手向けて歩いた俳聖芭蕉も、またこの地へきた折り、湯ノ庄司佐藤父子の跡を訪ねて弔ろうた
と奥の細道に誌しております。下って私も迂著の新平家物語では、兄弟の事跡をそれに書きましたので、いわば無縁の徒でもありません。
 それに近くの飯坂温泉へは、若年しばしば稿を携えてゆかりなどある儘、芭蕉翁の真似びには及びませんが、ここに拙文を草して郷土の郷土愛に呈したわけです。
 今日に立って昨日を見れば、すべて歴史は生々流転の音楽です。もしこの石の語るものが途上の遊子の胸を吹く旅情の一弦にてもなれば幸せです。ここの山河も諸子と共に奏でを合わせてやみます。
吉川英治先生撰


 2005/10/20(Thu)河北新報
 大鳥城(福島県福島市):絵図見つかる
 福島市飯坂町の大鳥城は奥州藤原氏の一族である佐藤氏の居城であったが、その絵図が大分市で見つかった。この絵図は本多家の家臣だった中根家(現在は大分市在住)が所有していたもので、中世の原図をもとに模写したものと思われる。中根家が福島城にいた延宝7年(1679)から天和2年(1682)の間に描かれたと見られ、本丸の東側に二の丸、三の丸が連なる連郭式の城だったことも分かった。
 大鳥城は12世紀半ばから後半にかけて、信夫荘司だった佐藤基治が築城したとされる。基治の子の佐藤継信・忠信兄弟は、義経の忠臣として知られる。なお、大鳥城跡は現在舘ノ山公園として整備されている。

by shingen1948 | 2009-01-25 09:22 | Comments(0)