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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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本宮南町「二本松街道追分あたり」

 本宮南町の話に戻る。
  額石堰にかかわる水系についての想像は、現在では安達太良川の水系についての想像と重なるように思う。
 単なる想像で、確実なものは何も持ち合わせていないが、この水系と本宮南町宿の創設と大きく関わるとのではないかと勝手に思う所がある。

 この町の創設者の小沼家が本宮に戻って、10代の子孫が、文化面で活躍したようだ。学問に励み、47歳のとき、水戸学派の国学者生駒熊文に学んで、「古学・和歌」に優れていたという。
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 その小沼幸彦にかかわる歌碑と彼が「石井清水」への道しるべと考えた碑が、この観音堂の角にある。(残念ながら、これは供養塔であったようだが……。)

 ここが、現在の道路でいう会津道である時点での「二本松街道」の追分のようだ。
 この道は、明治時代に開設された奥州街道と会津道のようだ。


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 散歩者にこの辺りの古道を想像するヒントを与えてくれる道しるべは、本宮市の資料館にある。


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 この道しるべは、元々は、南町の木戸辺りにあったらしい。


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 奥州街道の古道は、観音堂の東側を通っていたらしい。明治になって新しい道が開設されたのに伴って観音堂も西向きに変えられたと聞く。

 会津街道は、三差路になった所から、しばらくは明治時代の太い道路と重なっているが、少し行って、その道と分かれている。


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位置的にはこの辺りと思われる。多分、これが二本松街道の古道と考えてよいのではないのだろうか。


本宮市の資料館にある道しるべの案内板では、以下のように説明している。

普度供養塔
 表面中央に、普度供養塔とあり、下部に、「右あい津、左江戸」と彫られている。裏面の中央に天保14卯年(1843年)10月17日とあり、右側面に施主大内良忠役信と建立年月及び建立者名が記されている。建立者は当時の本宮南町名主である。
 「普度」はすべてのものを救うという意味の「衆生済度」と解するか、または、仏陀を意味する「浮唐」を表していると思われる。
 建てられた場所は字太郎丸155番地であり、現在は県道二本松・須賀川線の道路となっている。二本松方面から南下してきた奥州道中(俗称奥州街道)は観音堂につきあたって東へ曲がり、阿武隈川に沿って江戸に向かい、会津街道は観音堂の直ぐ手前から右へ分岐していた。この供養塔は、奥州道中が観音堂につきあたる所に建てられていて道標の役割をはたしていた。
 明治16年(1883年)奥州街道の改修にあたり、供養塔は撤去されて旧名主宅に移されたが、今回所蔵者の福島市大内雅美氏の御好意により本宮に寄託されたものである。
石質 花崗岩 全高138㎝ 上幅65㎝ 中幅84㎝ 下幅54㎝ 上厚22㎝ 下厚25㎝





小沼幸彦にかかわる歌碑等案内
一 太郎丸供養塔
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 この碑は、文化13年(1816)5月日記沢へ行く道筋で発見された。小沼幸彦は、「石井清水」への道しるべであると考え「岩井考」を書き残した。しかし、正安3年(1301)に建てられた供養のための石の塔婆で、左側三分の一程度欠けているように思われる。

 二、 小沼幸彦の歌碑
「旅人よ石井の清水見むとならば
このいしふみをしるへしてゆけ」
小沼幸彦は、本宮町南町を開いた小沼貞長の10代の子孫で、学問に励み、47歳のとき、水戸学派の国学者生駒熊文に学び「古学・和歌」に優れていた。
この歌は、右の太郎丸供養塔を発見した頃に作られたものである。
昭和60年12月
本宮町教育委員会

Commented by TUKA at 2010-10-15 21:35 x
歴史民俗資料館に移設されていた道標ですが、
この春、元の街道分岐位置に戻されておりました。
ttp://wing2.jp/~kaido/osy-01.htm

最近各地でこのような動きが見られるようで、
全くもって嬉しい傾向であります。
Commented by shingen1948 at 2010-10-16 08:34
情報ありがとうございます。
この地区は大合併で大きくくくられる方向性の地域なので、そういう地域のよさを見つめる姿勢が分かる情報はいいですね。
Commented by 大内雅美 at 2011-06-07 21:57 x
太郎丸供養塔につきましては紹介されているとおり、我が家の庭にあった物を当時の町長の依頼により資料館のため、古文書類とともにお預け、いたしました。
年齢と共に、本宮の歴史や大内屋のルーツに興味を持つようになりました。我が家にあった骨董品の類も散逸しておりますので、町史編纂の参考となった物品を一度整理したいと思っています。
町が合併し、知り合いも少なくなってきましたので、どこから手を付けて良いやらと思っています。
大内屋の手掛かりについて何かご存知の方がいらしたら教えて下さい。
Commented by shingen1948 at 2011-06-08 06:20
 コメントありがとうございます。
 戊辰戦争時、醍醐参謀が宿陣したという本宮旅籠「大内屋」でしょうか。いろいろ教えていただけたら嬉しいですね。

 専門的にお詳しいのは、大玉村で紹介されるこの御住職の方のようです。
http://www.f.do-fukushima.or.jp/ohtama/
 自ら古文書研修会等を開催したりもされていらっしゃるようです。

 自分は、本宮は倉庫で見つけた古い公民館発行の地史をコピーして散歩に使っていますが、こちらの方とは直接接触してはいません。
Commented by 大内雅美 at 2011-06-17 20:47 x
ご回答ありがとうございます。
お話のとおり、「大内屋」は脇本陣であり、造り酒屋、を営んでおりました。
町に寄託した資料には、女郎屋の鑑札もありましたが、いかがわしい店では無かったと考えています。
本宮町合併の折には名誉町長、県会議員、であり銀行家「本宮銀行」(後に郡山銀行と合併)であったと先代がメモ程度に書き遺してくれました。
酒蔵として、「銘酒春駒」と書かれた酒器がいくつか残っておりますが、「大内屋」を知る親戚も少なくなった今、ルーツはどうたどれば良いかと悩んでおります。
Commented by shingen1948 at 2011-06-21 06:08
町に寄託された資料は、写真で見ました。ただ、その公民館で発行されたその資料集は、公の機関にはなさそうで残念に思っています。

「大内屋」さんが酒屋と旅籠を営業していことは知っていましたが、その酒屋が「銘酒春駒」ということですね。
散歩人の感覚では、妓楼については、当時の感覚で幅広く営業をしていたと捉えるべきで、今風の感覚にこだわる必要はないのではないかなと思っています。

町村合併のたびに、地域の誇りのようなものが消えていくような気がしますね。
文知摺観音の資料館に展示される仏画を描かれる方も、本宮出身の方らしいので、本宮で確認しようとしたら無理でした。
現時点では、資料の整理は個人的に発信される工夫がよさそうに思えますね。
なお、先の御住職は、地史に関してはどなたにも気軽に相談に応じてくださる方のようです。
(追)
 「本宮銀行」(後に郡山銀行と合併)というのは、現大東銀行につながる「郡山無尽」ということでしょうか。それとも、また別のことなのでしょうか。
Commented by TUKA at 2011-06-25 20:18 x
本宮宿は元々北町しかなかったのですが、田村氏の家臣、小沼貞長が移住してきて南町を作りました。
以来、小沼家が町役を務めてましたが、天保2年原瀬家に役職・屋敷を譲り、明治まで続きました。
しかし名主役だけは元禄2年に山添家、寛延元年に国分家に移ってます。
宝暦7年に国分家の跡取りが大内家の養子になったため、以来本宮宿南町の名主は大内家が務めるようになりました。
北町名主の鴫原家本陣跡に明治天皇行在所址碑があるのはご存知と思います。

また明治27年の貸座敷業者名簿によりますと、本宮には13軒あり、うち7軒の名前が載ってますが、その中に「大内屋」の名はありませんし、大内姓の経営者もありませんでした。
Commented by shingen1948 at 2011-06-26 05:47
本宮の名主の変遷情報は、ありがたいです。小沼家から原瀬家までは分かっていましたが、それ以降は曖昧でした。
散歩人としは、その位置の確認をしたくなるのですが、原瀬家は、銀行の斜め向かいあたりでいいんですよね。

戊辰史にかかわる「大内屋」の情報は簡単に探せるようですので、そこから明治27年までの間の変遷不明ということでしょうかね。 

なお、南町の顛末については、ガリ版摺りの詳しい研究資料を見ているので、どこかに詳しい資料があるはずですね。
Commented by TUKA at 2011-06-26 18:55 x
本宮には銀行が複数ありますのでよく分かりません。
手持ちの資料「歴史の道調査報告書」によりますと、
原瀬家は二本松信金付近、大内家はセブンイレブン付近でしょうか。
図が小さいので多少のズレがあるかも知れません。
Commented by shingen1948 at 2011-06-27 05:49
地元の方が、東邦の斜め向かいのブックつるやさん辺りを指差し、元名主さんの子孫のおばあちゃんがいらっしゃったというような話を聞いたような曖昧な記憶です。ありがとうございます。


自分が目にした資料ですが、昭和35年頃の南町350年祭にかかわるものらしいことが確認できました。
今回の震災でコピー資料がごちゃごちゃになっていたのですが、公民館発行資料の一部が出てきました。

当時、南町創設までの興味でしか資料確認をしていないらしいことに後悔しています。
Commented by 大内雅美 at 2011-06-28 22:34 x
私の本籍地は今でも本宮町中條です。祖父のメモには、明治30年郡山税務署に「春駒銘酒」登録とあります。阿武隈川沿いに連なっていた蔵の記憶を持っている者は母だけになりましたが、不便な時もありますが、私が生きているうちは本籍地を本宮のままにしていたいと思っています。
Commented by shingen1948 at 2011-06-29 13:36
明治30年登録なら、明治27年時点でも存在は明らかですよね。

現在は橋が架かり、食堂「ふなば」がある辺りを基準に、位置情報を頂けると嬉しいです。(ここが、相馬、三春方面に向かう街道と交わる地点で、昔は舟渡場だったはずです)
造酒屋、あるいは大内屋があったのは、その南側だったということでしょうか。

現在、本宮の造り酒屋は、明治5年に創業の駅前の大天狗さんだけのようですが、関わるのでしょうかね。
Commented by shingen1948 at 2011-07-02 12:47
本宮町年表が出てきました。関係ありそうなところを抜き出してみます。
明治4年本宮村長南町大内利吉が出ます。
明治7年に、村長が用係となり、明治9年第6区戸長に同名が見えます。
金融関係では、明治13年盛業社創立
明治22年本宮町になり、名誉町長に大内氏が見えます。この年、南町に役場が新設されるようです。
明治33年に本宮銀行が設立され、専務取締役は糖沢氏のようです。
Commented by 大内雅美 at 2011-07-02 20:18 x
お詳しい方がいらして助かります。
大内利吉、は11代当主で柳原氏からの養子と聴いております。明治13年には「本宮町盛業社」社長であり、明治23年には、本宮町名誉町長となったようです。
前後関係が不明ですが、県議、郡議会議員も勤めていたと祖父から聞いた記憶があります。福島県議会から贈られた功労表彰を子供の頃に見た記録があります。
「大内屋」は、14代目である私で絶えます。
本宮に籍をおいたまま幕引きをしたいと思っています。
Commented by shingen1948 at 2011-07-04 17:17
余計なお世話かも知れませんが、個人的な大切なものであると同時に、地域でも大切に共有しておくべきものがありそうな気がします。
確かに、今は地域は過去を振り返るゆとりがなさそうです。しかし、過去を振り返るゆとりができた時には、大切なものがありそうな気がします。
例えば、遺物や公的な登録や免状の書類、位置情報や間取り情報等です。

個人的には、明治22年本宮町になって、名誉町長に選出される訳ですが、この制度的なものも気になっています。
Commented by 大内雅美 at 2011-07-05 22:38 x
私は、福島市生まれで、墓参り以外、本宮を訪ねた事はありませんでした。最近、停年が近くなった事もあり、「私は何だ」という疑問を持つようになりました。
祖父と過ごした過去を振り返る事も多くなり、幼い頃、親戚や菩提寺の住職の話を聴くうち、ドラマの様な歴史や不思議な運命のような物を感じるようになりました。
停年は人生の半ばだと思っていますので、時間をかけて大内屋や本宮、宮森城の歴史に触れて行きたいと思っています。最近、小沼幸彦と大内秋夫の連歌を見つけたのが、私のルーツ探しのきっかけです。手掛かりは沢山ありました。
しかし、謎は、謎のまま、歴史的資産として後世に残って行けば良いとも思っています。
Commented by shingen1948 at 2011-07-07 05:37
頂いた情報と手持ち情報を少し整理したいと思います。
確かめる中で、また、分かったことがあったら教えてください。
Commented by 大内雅美 at 2011-07-10 21:34 x
我が家が大震災で被災したため、家を修理する過程で「大内屋」の物品が色々出て来ましたきました。
老後の楽しみ(笑)が増えました。
三春町の「塩田瞑々」(歌人・俳人?)と大内秋夫は、旅を共にするほど親交あったようです。
しかも遡れば親戚かもしれない、という不思議な話です。大内屋と小沼家とは親戚筋ですが、文学だけでは無い関係があった事に驚きを感じています。
Commented by shingen1948 at 2011-07-12 05:48
 日本古来の文学は苦手です。
 ちょっと検索してみたら、大内秋夫氏と俳句についての情報らしいものが引っかかりました。
 「本宮町史2近世通史編Ⅱ」の「第六章 本宮地方の近世文化人」の「第一節 学術・文芸」 の「7 町政を担っての俳人大内秋夫」がかかわりそうですね。
まだ図書館が開いていないので確認できませんが……。
Commented by 大内雅美 at 2011-07-15 22:09 x
秋夫は俳号であって大内家六代目です。
代々当主は藤左衛門を名のっていたようです。親戚筋でも当主は代々同じ名を名のる家があります。寛延元年に名主になっていますが、芭蕉門弟の人たちと親交があったようです。我が家の墓所の前に町の教育委員会で立て看板のようなものを立てましたが、もう少し判りやすい場所に立てるか、丁寧な説明記述があっても良いのに、と子供の頃から思っていました。
本宮市や旧安達郡には、あまり研究されていない事が多いような気がします。
Commented by shingen1948 at 2011-07-20 05:51
図書館に本宮町史があったので、パラパラめくってみました。
文化文政~幕末にかけての本宮酒造業が確認できました。
北町が井筒屋他3軒、南町が原瀬・大内等3軒、青田村が高田屋他2軒のようです。そのうち、例記したところが明治まで続いていたということのようです。なお、北町の油井屋は明治に醤油に変更したとのこと。

本宮盛業社は、明治13年(1880)創業で、初代大内氏でした。明治20年代に盛業銀行となり、明治25年に本宮銀行となるようですが、2~3年両方の名前で混同されていたらしいということのようでした。
Commented by 大内雅美 at 2011-07-21 22:06 x
大内六代目藤左衛門(大内秋夫)は、国分家より入籍し苗字帯刀ご免にて寛延元年に名主と伝わっています。
次いで七代目藤左衛門も養子であり、功あって寛政三年に永代帯刀ご免を受けています。
以来、養子をもらい、婿を取って、大内屋を存続してきたようです。
酒蔵は大正13年に富の山酒造に譲ってしまいましたが、旅館、質屋、銀行など手広く手掛けてきたものの、昭和恐慌、戦争で商家ののれんは降ろしました。
代々直系の男子は続かないという「ジンクス」を守るように名実ともに、四本松城から続く大内屋は、幕といたします。おかげ様で、謎の多くを知る事ができました。
ありがとうございました。
宝暦7年に国分家の跡取りが大内家の養子となった事から、南町の名主は大内家が務めるようになりました。
Commented by 大内雅美 at 2011-07-22 20:58 x
「本宮町史」なるものが存在する事は知っていますが、私は一度も目にしておりません。
件の「供養塔」や古文書、大内屋の大福帳をはじめ、営業関係書類や物品などを本宮町史をたどるためとして、本宮町の教育委員会に寄託いたしました。
町との寄託契約や目録は保管しています。今年のお盆には、久しぶりに資料館に行くつもりです。
貴重な情報をありがとうございました。
資料館に本宮町史があれば見てみたいと思います。
Commented by shingen1948 at 2011-07-23 12:12
本宮町史は、福島市の図書館でも簡単に見れますよ。
3階の部屋に入って右手書棚で見ました。本宮町史は索引集がついているので、そちらから検索すると簡単に情報が得られそうですよ。
なお、議員についての情報もありました。当時は、副戸長の立場だったようです。
by shingen1948 | 2009-01-23 18:58 | ◎ 奥州街道 | Comments(24)