地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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栗本堰と松川堰堤改良の共存

 高台に円筒分水が見えたあたりから、松川の土手に出る。
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 土手の異様な巨大さや形から、本腰入れて自然の水の力を抑え込もうとしていることが感じ取れる。


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 記念碑に言う「然るに幸なる哉事業に参画の諸賢が宝永万民を潤すの志を立て、松川砂防邸堤を利用して三堰合一の取入口を設け旧水路敷きを拡げ、」という事業計画だったということに納得する。

 まず、この松川において水の力を抑え込むのには、巨大な堰堤が必要だったのだ。
 そのためには、右岸の活用されていた3つの堰の取水口との共存関係を築く必要があった。
 それで、堰堤の工事に先駆けて、最奥地の床固めのダムを使って取水口を設け、そこからもっとも高い位置にあった栗本堰の取水口の位置に、3つの堰の分水を置いたと想像できる。
 それから、堰堤の本格的な工事に入ったということだ。

 だから、円筒分水の必要性があったのだろう。ここで不公平感が生じて水争いが起きない配慮だ。
 現時点で、3つの堰の組合が合流して運営されていたとのことだから、円筒分水はその役割を十分にになったということか。

 先に確かめた本来は、一の堰、あるいは笹谷堰の水神に、栗本堰の由来が刻まれていたことは、遺跡としては混乱を招くとみれるが、共存関係という視点からは、成功例ということなのだろうか。
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 やがて、フルーツラインが見えてくる。この先に栗本堰の記念碑がある。


 水神に刻まれていた栗本堰の歴史の上に、フルーツラインにある栗本堰の碑に刻まれた歴史が重ねられたということのようだ。

<水神に刻まれた栗本堰>
  栗本堰は、今から204年前享和3年(1803)栗本三左衛門という人が時の桑折代官、竹内平右衛門の許可を得て計画立案、用水路を開削完成し栗本堰と名付けたとの言い伝えがあります。かつては旧信夫郡大笹生村、笹谷村、平野村、余目村、清水村の一部、蒲田村の一部に跨ぐる水田約一千町歩の潅漑用水及び一般用水を松川左岸から栗本堰、一の堰、笹谷大堰の三堰各水利組合が個々に取水していたのを昭和22年に県営農業用水路改良事業として工事着工、松川砂防堰堤に取水口を設置し昭和25年に竣工したのが栗本堰幹水路であります。


<栗本堰記念碑に刻まれた栗本堰>
a0087378_19415760.jpg  この碑は、栗本堰用水改良事業が昭和22年より3ケ年の歳月を重ねて竣工した大偉業を記念する為に建設したものである。
 かつて、旧信夫郡大笹生、笹谷、平野、余目の各村、福島市(清水・鎌田)に跨る水田壱千町歩の灌漑水及び一般用水は、松川左岸の旧栗本堰、一の堰、笹谷大堰の三堰より引水していたが、各堰共不完全で年々取り水設備に多額を費やし、或いは下流水田の植え付け期を失して莫大な損害を蒙るな遺憾な点が極めて多かった。然るに幸なる哉事業に参画の諸賢が宝永万民を潤すの志を立て、松川砂防邸堤を利用して三堰合一の取入口を設け旧水路敷きを拡げ、更に新堰を開き、各水路に引水することを策定し、終戦直後の資材資金難をよく克服して、官民一体となり全力傾倒の努力の結果見事に完成したのである。○来20年、2600余戸の農家、並びに一般住民の栗本堰より受ける恩恵は、測り知れぬものがあり、水満ちて人和すの通り、水田適期作付の可能、稲成育期の水管理の苦労解消、更には果樹園芸の振興等地域産業発展に貢献するところ極めて多大である。世相の激動変遷はあっても、万古に涸れぬ栗本堰は長く地域振興の礎となることを固く信じるものである。
工事概要
起工昭和22年2月1日
竣工昭和25年3月31日

中略
昭和45年3月6日福島市栗本堰土地改良区建之
人名 略

by shingen1948 | 2009-01-21 04:48 | ◎ 水 | Comments(0)