地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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太郎丸観音堂

この観音堂が、南町造りの一環として行われたことを直接説明する案内板はない。
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 ただ、太郎丸観音堂供養塔の案内板に、以下のように、観音堂と共に移されているという説明があって、間接的に南町造りの一環だったことがなんとなく分かるようにはなっている。


観世音来歴によると(太郎丸観音堂供養塔は)「古観音堂(日輪寺の南西の岡)にあったものを慶長15年(1610)に観音堂と共に太郎丸に移されその後、二つに折れて地中に埋もれていたものを、明治27年観音堂修理のとき、ここに建てた。」となっている。


南町創設者「小沼貞長」の案内板説明では、彼の死を一行で説明している。
 
慶長15年(1610)8月18日、68歳でこの世を去りました。

 しかし、実際は、それほど穏やかではなかったらしい。
 ひいきにして頂いた給人が亡くなると、その地位は怪しくなったようだ。
 北町を預かる役人が、このチャンスを狙って巻き返しを図る。目安を使って、会津へ訴えたという。
 伊達政宗に馬を献上したのは、本来会津によこすべきだたとか、勝手に町を造ったとか、浪人共を集めて弓鉄砲の練習をしているとか等。

 その訴えが認められ、小沼貞長は切腹になる。そして、その首は石雲寺に葬られているという。
 長百姓8人他町を造るのに協力した者は、本宮追放で、高木へ渡ったという。そして、小沼家は保原へ移動する。
 
その後の本宮は、うらみつらみの不穏な状況が続いたらしい。北町検断が暗討にあって、後絶えになったり等々とか。
 耐えきれなくなった北町検断は、蒲生秀行の葬儀時に、若松奉行に追放の赦免を願い出て和解を図り、南町創設関係者が本宮に戻ってきたという。
 その後、例によって婚姻関係で絆を固めて本宮はようやく平穏を取り戻すということらしい。

 ここの部分は、地域としては詳しくは触れたくない事だろうが、開発には利害関係が生じるのはつきもので、多かれ少なかれどこでも起きていることのような気はする。

 案内板では、太郎丸観音堂供養塔については、次のように説明している。
本宮町指定有形文化財考古資料
 太郎丸観音堂供養塔
 厨子を形どるように枠をとり半肉彫りで、中央に本尊阿弥陀佛を、右に合掌する勢至菩薩を、左に蓮華を持った観音菩薩を踏割蓮華の上に立たせている「浮彫阿弥陀三尊来塔婆」である。
 観世音来歴によると「古観音堂(日輪寺の南西の岡)にあったものを慶長15年(1600)に観音堂と共に太郎丸に移されその後、二つに折れて地中に埋もれていたものを、明治27年観音堂修理のとき、ここに建てた。」となっている。
 自然の風雪などによって大変いたんでいるが、全体的に素晴らしいもので、鎌倉時代中期以降ころの三尊来迎塔婆である。

 昭和60年12月
 本宮町教育委員会

by shingen1948 | 2009-01-16 18:57 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)