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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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本宮南町の建設

本宮南町の建設_a0087378_2129961.jpg
 本宮南町を創設した小沼貞長の碑がある観音堂も、この小沼貞長が街づくりの一環として、移転してきたもののようだ。
 本宮町の年表によると、慶長13年(1608)に、本宮南町が創設された後、慶長15年(1610)に、次の寺の移動が記されている。
 ○ 塩田観世音を古観堂より太郎丸に移す。
 ○ 日輪寺は北町から舟渡町と中町の間に移された。
 ○ 後宝蔵寺は高木より移された。
 ○ 誓伝寺は青田より移された。

 われわれは、日本史として概観できる立場にいるのだが、その眼でこの本宮南町の創設をみるととらえにくい。
 1600年は、関ヶ原の戦いで、上杉氏は石田方で、伊達氏は徳川方である。しかも、信夫の里では、伊達氏はそれまで、淡々と上杉氏を狙って、戦いを挑んでいる。

 小沼貞長は、上杉氏より250石の土地を与えられ、そして、伊達氏に馬一頭を献上して、伊達氏が上洛するときの宿場を創設するとして、本宮南町の建設にかかる費用を伊達氏から調達している。互いに反目しあう方を渡り歩いているようにもみえる。
 しかし、実際には、給人は浪人である小沼貞長の面倒をみてやろうとして、単に会津の殿様に頼んだのであって、小沼貞長が、元会津の殿様の伊達氏とつながっても矛盾は感じなかったのだろうなと思う。

 さて、ここ太郎丸藤兵工だが、これも年表で追っておく。
 天正17年(1589)5月には、安子島城、高玉城が伊達氏の手で落城し、6月に伊達と葦名の磨上原の戦いになるのだが、ここで戦死している。
 磨上原での戦死ということは、伊達氏方についていたと想像するがどうだろうか。
by shingen1948 | 2009-01-15 21:27 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)