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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安達太良川水系の堰~額石堰

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 こちら側が、安達太良川への分水だが、これにかかわる堰がある。額石堰だ。
この堰は資料不足でよく分かっていない。地元の人は、通称「ばかぼり」と呼んでいる。
 「大玉村水利事業史」では、本宮池堰書上帳に記載されることをもとに、この堰の開削を、元禄8年(1695)以降明和7年(1770)以前と推定している。
 同書では、「本宮地方史」の記載内容も紹介して、年代推定の確かさ加減を示している。
○ 江戸時代中期後、額石川、唐沢川その他の流れを合わせて、玉井地内の安達太良川に落水したこと。
○ この用水は、現在三森ため池の北縁を通り、その導水路の下部を横断して通水し、水不足の場合、利用も可能であるとしている。

 これら資料の状況は、いくつかの示唆を与える。 
 その一つは、資料が、本宮地区にあるということは、水利の問題は、本宮も含めた南達地域全体の問題であることであり、課題は取水口から遠い本宮地区に多くあること。
 その二は、それでも資料が少ないのは、信夫の里のような厳密な検地による締め付けが少なかったのではないかと推理できること。

 「大玉村水利事業史」では、現地の調査感想から、その流れは、時として水は高きより、低きに流れるのが通常だが、低きところから高きところに向かって流れているように見える。そのように普通と異なる型で水が流れる堀なので、異常なものとして「バカ堀」の名が付いたのではないかと推定している。
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 現地に行ってみたいところだが、熊注意で行く勇気はない。
 地図で確かめる。

 「ばかぼり」という否定形での言い方については、似たような否定形で表す流れがいくつかある。これらは、厳密な水位保持があって、これら迂回と逆さ水から逆流の錯覚が生まれるというものだ。
  砂子田堰の「伊達の逆さ水」は、分水した水を本流と堰で、方向が逆になっているものだ。西根堰では、五十沢の迂回がある。これは、削られてしまった地形で、、迂回しているのだが、周りとの景色で逆流に見えるらしい。


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 この堰の最初の川から額石堰に取り入れた流水を、次の川に繋げるあたりが、そういった状況になっているように感じる。

  なお、この用水は、現在三森ため池の北縁を通り、その導水路の下部を横断して通水し、水不足の場合、利用も可能であるとのことだ。
Commented by おざすきぃ at 2009-01-17 18:36 x
シン様
はじめまして、おざすきぃと申します。
全国の円筒分水を巡っている者です。
シン様のブログを拝読し、長井坂円形分水を知りました。
福島県にはなにかと円筒分水が多いですね。
今年の夏にでも訪れてみようと思います。
書き込み失礼いたしました。
Commented by shingen1948 at 2009-01-19 18:35
コメントありがとうございます。
円筒分水を、実際に見た時に、何故か心に響くものがあったのですが、誰に語っても伝わらなかったので、うれしいです。
 そちらにうかがったら、思い入れが半端でないようで、圧倒されました。
 
Commented by 「大」@安達太良山麓 at 2009-03-08 16:32 x
はじめまして、大玉村生まれのオヤジです。
「ガクイシの堰」は今も堰上げ(手入れ)が行われています。
吉丸から蒲坂あたりの人達が軽トラックで堰まで行きますが、熊に出会ったことは無いようです(笑)
おっしゃる通り石筵川へ流れる水を安達太良川へ流すのが目的です。
確か今は三森池に水は落とされているハズです。
理由は蒲坂や吉丸は三森池からの用水で水田が作られていますから、長井坂の方へ流すのであれば、そちらの地区で水番をするはずですから。
Commented by shingen1948 at 2009-03-09 05:17
情報ありがとうございます。
他所者にとっては、熊は怖いです。熊鈴は必需品です。
西山城でも、本丸は果樹をやめたので熊は出ないと笑われました。

今興味があるのが歴史的な背景です。
安達太良川に流すということで、最終的に本宮南町開設と関わっているのではと想像するのですが……。
 勿論、スタートは近くの耕地開発のためだと思うのですが、この想像、どんなもんでしょうか。
 
Commented by 「大」@安達太良山麓 at 2009-03-11 17:20 x
大玉村から本宮(安達太良SAの北側)は、あまり水には困っていなかったようです。
昔は水戸藩の領地があって、私の祖先は領地の番に来た水戸の侍だそうです。
安達太良山麓の堰は、開墾で水田を広げるために必要だったそうです。
吉丸地区、矢沢地区、長井坂地区、蒲坂地区、このあたりは沢水もあまり無いので、用水を引く必要があったみたいですヨ。
本宮の岩根から荒井にかけては、五百川の岩色堰から取水した岩色用水があって、今も水田はこの水のお世話になっています。
Commented by shingen1948 at 2009-03-12 04:42
近くの開墾の目的での開削ですか。

鳴俣堰が、近くの皿久保地区の開墾だけでなく、大山地区の水利と関わり、更には、本宮城主鹿子田和泉がかかわって、本宮市水口地内あたりまでかかわるということだったので、同じようなかかわりを考えてしまいました。
すっきりしました。ありがとうございます。


Commented by shingen1948 at 2009-03-12 04:56
(追)
すっきりしたつもりだったのですが、ひっかかりました。
水戸藩ですか。
会津と二本松しか頭にはありませんでした。
また引きずりそうです。
Commented by 「大」@安達太良山麓 at 2009-03-12 08:24 x
江戸末期はどうかわかりませんが、たぶん元禄の頃と思います。
私のご先祖様は、水戸藩の武士で領地の番人(代官)だったそうです。
名前を明かすとバレバレになるので伏せます(笑)
本来なら国元へ帰るハズですが、世話になっていた庄屋の娘と恋仲になって居ついたという笑える先祖でもあります。
ですから、江戸時代から苗字帯刀を許されていたそうです。
ちなみに今住んでいるのは、鹿子田から500m程北側の庚申壇古墳の東端です。
福島県には珍しい前方後円墳ですが、東北本線が分断しているのが残念です。
Commented by shingen1948 at 2009-03-12 18:56
大胆な仮説ですが、こんな想像はどんなもんでしょうか。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の仕置きで、この地も会津蒲生氏郷の領地となっています。
氏郷の死後、家中不和から蒲生秀行は宇都宮転封となり、会津は、慶長3年(1598~98)上杉氏になります。(途中、この地は幕僚になるかもしれませんが……)
その後、慶長6(1601)年に、徳川方に味方した蒲生秀行が、宇都宮から再び会津に封ぜられています。
この時の家臣だったというのはどうでしょう。大胆過ぎますか。

蒲生氏は、秀行の後を忠郷が継ぎますが、世子がなかったので、ここで断絶します。
 そうすると、その家臣は、帰農する運命になるると思うのですが、……。
 想像は自由ということで、論拠もない、大胆ですが、……。

庚申壇古墳は、先日福島大学の現地説明会に出かけてきました。葺石ではなく、石室の石が崩れたものらしいというのが、印象的でした。石室の上は崩れていましたが、古墳は北南に広がっているので、無事のようですよ。
 古代は、そのあたりかなり賑わっていたようですね。
Commented by 「大」@安達太良山麓 at 2009-03-13 08:45 x
仮説に近い状況かもしれません。
19代位前のご先祖様は、越前の某戦国大名の血筋で、信長に滅ぼされましたが一族郎党根絶やしではなく、水戸家にも仕えていたそうです。
こちらに居ついているので本家筋では無いのですが、末裔とのことです。
一度滅亡した苗字なので、増殖せず4軒のみ(笑)
私の家の近所は古墳銀座らしいです。
傾城壇古墳、二子塚古墳、天王壇古墳、白旗山古墳群などなど・・・
建築で地面を掘り返すと土器が出てきて発掘なんてことがしばしばです。
けっこう施主にとっては迷惑な話ではありますヨ(笑)
Commented by はなまる at 2009-03-13 09:39 x
はじめまして
神奈川県に在住ですが、実家や母方が上杉家臣であったので興味深くブログを見させて頂いておりました。天正19年の古文書が残っていたので調査しましたが、この頃は秀吉の仕置が発令されても、まだまだ地元(信夫他)は混乱しており家臣も何処の藩に就くか?と・・・、いろいろな出自の武士が混在していたようですよ。
Commented by shingen1948 at 2009-03-13 17:18
「大」さんへ
 最近、信夫の里の言い伝えで、本当かなと思える話を聞いて、状況を確認するとありえる話が多いなと思っていました。確証がなければ、学問的には発言できないでしょうが、散策をする者にとつてはそこは自由。案外真理を突くかもしれないなとも思っています。
言い伝え、大切にしたいですね。
Commented by shingen1948 at 2009-03-13 17:28
「はなまる」さんへ
 コメントありがとうございます。
 今、信夫の里を散策中ですが、開発はほとんどが上杉氏関連です。120万石から30万石になっても、家臣を切り捨てなかったのはすごいとしか言いようがないですね。それが、信夫の里開発のエネルギーになっていたようです。
 だから、15万石に厳封されて切り捨てざるを得なくなった時にも家臣は納得して切り捨てられているというのが分かります。
 
 おっしゃること、本宮宿の小沼氏で分かります。(これは安達太良の里ですが、)
 伊達政宗に資金を貰うのが、三春藩とのかかわりで、土地の所有許可は、有力者とのかかわりで頼んでいくということです。
 たくましさを感じます。

 
Commented by はなまる at 2009-03-13 19:14 x
信夫の里散策・奥が深いですね。中世から近世とは簡単に区分けできますが、その時代に生きる民は世の中の目まぐるしい様をどう見ていたのでしょう・・・・面白いですね。
1619年には家中(二男)が伊達藩に召抱えられて信夫から離れていきましたし、寛文4年(1664か?)には1部の家中が米沢に仕官
して移っています。奥羽仕置に翻弄され田村家臣から流浪してやっと上杉家臣となって信夫の里で~、この頃信夫の里に在した家臣はただ者ではなかったと思います。まだまだ調べたりません。
つい自分のご先祖様のこととなると熱くなってしまいます、申し訳ありません。
Commented by shingen1948 at 2009-03-13 19:57
信夫の里は、伊達氏の旧地であり、田村氏は伊達氏と関わり深く、新しい勢力は上杉氏という関係性の中で、生死をかけて、どう生き抜いていくかの選択は容易ではなかったろうと思いますね。
Commented by はなまる at 2009-03-14 23:23 x
シン様
散歩道・散策ですから、あまり考えすぎても・・と思いましたが、失礼を覚悟で。「大」さまの水戸藩の件ですが、江戸幕府の藩制から福島県では沢山の「飛び地」が入り組んだ地域でもありました。新発田藩(新潟)・足守藩(岡山)等、ですからおそらく水戸藩も有りでしょうね。時代の流れをもう1度見て納得しました。
Commented by shingen1948 at 2009-03-15 04:09
ありがとうございます。水戸藩飛び地有りですか。
実は、散歩人としては、ばか掘の成立についての重要な情報でないのかなと思っています。この堰、専門の方も、いつ・だれが・何のためにということまでは分かっていないはずです。(公には)
年代は、隣の本宮の古文書に載る年以前に存在したといった証明だったはずです。
今手元に資料がありませんが、多分それが江戸中期で、補助資料として、会津の加藤氏の時代に、村高が極端に増加しているということぐらいだったと思います。
水戸藩飛び地という特異点があって、大さんが少しでもそれに関わる直接的な資料をお持ちで公になるとなれば、これは大きいのではないでしょうか。
Commented by はなまる at 2009-03-15 22:00 x
連日おじゃまします。
きょうは福島に行き一足早くお墓参りをして来ました。そして歴史資料館によって‘‘天地人’’の時代・展示をみてきました。ちょうど主幹が来場者に解説しているところにだったので話も聞けました。数々の古文書から「その時代・とき」の動きが理解出来ましたし、虫食いも無い状態の文書に驚いています。展示最後の日に間に合ってよかったとおもいました。この後会津の県立博物館や白河のまほろんでの催しなどの案内をいただき、資料切れしていたシンポジウム資料も走って取りに行ってくれましたまだ読んでいませんが、パラパラ捲っていたら、平田禎文(日本考古学協会)氏の内容が興味深い内容になっていたのでじっくりと読もうと思っています。
「山さま」の水戸藩の件、調べてみると元禄13年(1700年)水戸藩連枝として松平氏が守山を領して「守山陣屋」として藩士が国もとから行き来して治めています。「守山陣屋資料・史料」を調査すれば何かわかる様な気がしますが、水戸史料として国もとにあるのでしょうね。その辺までにしておきます。
Commented by shingen1948 at 2009-03-16 21:10
歴史資料館の展示、地味ですが信夫の里に興味あるものにとつては充実していましたよね。
マホロンは5月まで信夫の里関係展示らしいですね。いけたらいいなと思ってます。
 「大」さんの件、何か関連ありそうですね。
Commented by shingen1948 at 2009-03-17 19:03
 守山2万石の陣屋は、郡山市田村町の守山のようですが、そことつながる資料があるかどうかですね。
Commented by はなまる at 2009-03-17 22:01 x
お晩です
今『ふくしまの歴史3近世』の中の「町のくらしと村のくらし」の中の「資源の共同利用~山麓の村と平地の村」のところを読んでいます。山や野原は、山麓の村が資源の保護管理をし、多数の村々が共同して利用する資源の供給地であり、寛文年間にも安達郡の村々の入会山(いりあいやま)の争いなどが記されています。山の水や資源などは固定の村だけのものではなく、いくつかの村々が介入していたように思われます。守山も今でいう郡山・田村方面ですが、この時代の領内は本宮と背中合わせの位置ではなかったでしょうか?いつ・だれが・云々となるとかなり詳しくしらべないと「答え」は出ないのではないでしょうか?年代的には元禄の前後・この頃の村々の関わりなどがある程度わかってくれば、共同開発も有かななんて思いますが。陣屋はあくまでも交替で国元から家臣が来て治めていますので、史料・文書類は国元・水戸にあるのでしょうね、きっと。
Commented by shingen1948 at 2009-03-19 03:47
 散策する者としては、地元のいい伝えから、デフォルメされたことを削り取りながら推測するという方法もあると思います。
 「大玉村水利事業史」で、いろいろな説があるとして、具体例は玉井氏の頃としか紹介されていなかったのですが、今回その「いろいろ」という広がりが分かりました。
by shingen1948 | 2009-01-13 20:24 | ◎ 水 | Comments(22)