地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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阿倍薩摩開村笹谷~栗本堰の由来と概要から

 最近、栗本堰の水神が、改修遷座されたところがある。その水神の台座に「栗本堰の由来と栗本地区の概要」を刻み、平成18年度竣工の県営福島北部地区経営体育成農業基盤整備事業の記念碑にもしているようだ。たまたま、ここで催事をしている時に通りかかっている。記念碑に平成18年(2006)8月28日と刻まれているので、あれは2年前だったということらしい。
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 この水神だが、半沢メモでは、大正2年建立というし、その水神の台座の「栗本堰の由来と栗本地区の概要」での説明では大正10年建立という。

 記念碑に刻む栗本堰の概要によると、その改修経緯は、おおよそ次のようなことのようだ。
 昭和25年に松川砂防堰堤に取水口を設置し、栗本堰幹水路が竣工。
 昭和27年には、栗本堰土地改良区として、三堰水利組合が合併。
 更に、昭和51年には、福島市土地改良区と合併して福島市土地改良区栗本地区維持管理委員会となる。

 したがって、現在はこの水神は栗本堰を守っていることには違いはない。
 しかし、この水神は、大正2年の笹谷大堰改修記念ともいわれている。また、一の堰ともいわれているという。

 これらの断片をつなぐと、この水神はこの辺りの堰の歴史を見つめてきたと想像できる。
 多分、まず一の堰の開削があった。そして、次に、その堰が大改修されて大規模になるが、この時に、笹谷大堰ができた。しかし、それでも足りずに、上流に栗本堰を開削し、その堰と笹谷大堰をつないだ。


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 もしこの想像したことが、間違いではないとすると、この碑のあるあたりの水路が、阿部薩摩が開設した笹谷とかかわる水路ということになるのではないのだろうか。勝手にそう思うがどうだろうか。


 実は、この水神から道路を挟んだ高速道路側が、笹谷城を探してみた地域であり、高速道路の向こうには、阿部薩摩の墓があるという位置関係である。
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 なお、この笹谷大堰の取水口は、円筒分水装置より東に行ったこの水路の途中にあるらしい。

 元々の栗本堰の改修記念碑は、フルーツラインとこの堰がクロスするあたりにあると聞くが、まだ確かめてはいない。






栗本堰記念碑説明内容

 栗本堰の由来と栗本地区の概要

 栗本堰は、今から204年前享和3年(1803)栗本三左衛門という人が時の桑折代官、竹内平右衛門の許可を得て計画立案、用水路を開削完成し栗本堰と名付けたとの言い伝えがあります。かつては旧信夫郡大笹生村、笹谷村、平野村、余目村、清水村の一部、蒲田村の一部に跨ぐる水田約一千町歩の潅漑用水及び一般用水を松川左岸から栗本堰、一の堰、笹谷大堰の三堰各水利組合が個々に取水していたのを昭和22年に県営農業用水路改良事業として工事着工、松川砂防堰堤に取水口を設置し昭和25年に竣工したのが栗本堰幹水路であります。
 昭和27年に三堰水利組合が合併して栗本堰土地改良区となり、更に昭和51年福島市土地改良区と合併して福島市土地改良区栗本地区維持管理委員会となり現在に至っております。
 然し時代の変遷は著しく、かつては水田面積約一千ヘクタール、組合員数約二千名を誇った栗本地区も住宅、商工団地の造成、区画整理、その他の開発行為により水田面積が約408ヘクタール組合員数1109名と大幅に減少した事は誠に寂しい限りであります。今後は200年前に此の大事業を成し遂げた先駆者の偉大なる業績を讃え、昭和大改修を実現された先輩諸氏に対して感謝の意を表し、更に平成9年度着工、平成18年度竣工の県営福島北部地区経営体育成農業基盤整備事業によって美田が整然と並び、生まれ変わった栗本地区と美しい自然と誇れるふるさとの創造、そして85年前(大正10年)、に建立した農村文化遺産とも言うべき栗本堰水神を崇拝し大切に保存して後世に伝えるのが私共に課せられた責務であると痛感し、この度改修遷座を致しました。

 平成18年(2006)8月28日
 福島市土地改良区 栗本地区維持管理組合

Commented by 勘次郎館のおやじっす。 at 2010-05-11 12:31 x
どもども、阿部薩摩関連でいいますと、、。

栗本堰からの水路で「前田川」と名前がついている水路があるのですよ。

それは、その水神様より200m下流で分岐し、飯坂電車笹谷駅の方へ流れていきます。

この分岐点のところの地名は「字上堰場」といいまして、、なにやら、、ですね。

この川の流域に住まう旧地主、笹谷駅周辺の「本間家」や前田集落の「武田家」は上杉関連の家系ですので、、はい。
Commented by shingen1948 at 2010-05-18 16:36
 情報ありがとうございます。現在、古いパソコンを動かす環境をつくるのに手こずって、対応が遅れています。済みません。
 さて、ここが一の堰ですよね。
 「薩摩掘り」は、この一の堰なのか、この一堰からつないだその分岐した川筋をいうのか、不明の状態です。
 情報からは、後者の川筋と考えてよいのでしょうかね。

 この川筋を確認していったら、矢野目堰ともつながっていました。
 本来、松川伏流水を集めてスタートするのであろうべき耳取川も、この水がいっているような感じがしました。
 すべてが栗本堰ということで、水路管理上はよくなったのでしょうが、散歩人としては、分かりずらくなりました。 
Commented by おやじはガイドか。。違うべ。 at 2010-05-18 19:49 x
実は、シンさんと同じように調べている人たちがおりまして、
よく聞かれたりするのですよ。
「薩摩堀ってどこ??」と

解らんです、ほんとに。

確実に言えることは
「この地は人工的な水利がなければ農耕に不適な地である。」
ということです。
Commented by おやじも勉強中! at 2010-05-20 19:45 x
例の「笹谷のむかし」P7に下記の文がありました。

>また薩摩に関して、「薩摩堀」や「薩摩屋敷」跡が残っていますので、」

でも、地元民のおらでも場所を特定できませんです。

この「前田川」は二郡村史による「竹之花せき(漢字変換できませんでした)」がその流れのようですね。

>南部道海壇ニ於テ大せき(変換不可)ヲ分派シ 東流シテ北沢又村界ヲ為シ 三本松ヨリ北沢又村ニ入ル
Commented by おやじ考察中 at 2010-05-22 19:51 x
二郡村史の「せき」ですが。「きょ」と入力すれば変換できました。
「渠(せき)」です。

竹之花渠の分岐点、字道海壇は実はこの水神様の場所です。
二郡村史の時代はこの水神様で分岐していたのかもしれません。

この水神様の左側は本流(旧笹谷大堰)ですが、右側の水路は先で急激に細くなります。
さらに、くねくねと流れ、付近の水田を潤しながら「前田川」と数m(市道を挟んで隣り合う)まで接近し、一部は合流します。
高速道路を横切ってから、さらに二つに分かれていきます。

前田川=竹之花渠の旧水路と考えてもおかしくはないかな・・と。
自信なしですけど。
Commented by おやじ考察中しょの2 at 2010-05-22 20:06 x
地名は歴史を語るといいます。

円筒分水から笹谷方面へ行く流れは一旦松川河岸段丘の下へ降りて行きます。
松川本流に接近してから、この水神様付近で再び段丘の上に上がるわけですよね。

ここで松川本流に一番接近する地点の地名が「字矢野目畑」といいます。
始点と終点の名を一致させることは、万世大路を例に出すまでもなく、ままあることかなと・・・。

旧取水口があったのかな、、、自信はありませんけど。
Commented by shingen1948 at 2010-05-23 05:54
 散歩のお付き合いに巻き込んじゃったようで、すみません。
 実感として、同じような感覚です。
 散歩人の感覚では、「松川本流に接近してから、この水神様付近」が、「笹谷大堰」で、この「水神様」が、その「一の堰」の供養碑あるいは、その「笹谷大堰」改修に伴う碑だと思えてしまうんです。
 すると、「薩摩堀」の散策の原点が、このあたりだとは思うのですが、近所の熊野神社の案内板説明が、気になっています。
 熊野神社を鎮祭したのは、当地に居住していた上杉景勝の家臣青木・吉原・長井の3氏で、元和年間(1615~1618)といい、寛永年間に上杉の家臣阿部薩摩が、再開墾して願祈が満願となって大梵鐘を奉納したとするからです。
 本当は、単なる散歩人が口を出してはいけないことですが、この水上様がかかわるのは、「笹谷大堰」であって、大笹生開拓にかかわる「栗本堰」ではないと思っています。
Commented by shingen1948 at 2010-05-23 06:01
(追)
「薩摩屋敷」から子孫の方が他所に移られたのは、何となくですが、ご近所の方が知っている範囲だと感じています。
 ご近所情報としては、『(代々の旧家の)「阿部さん」が、引っ越すんだって』というような情報だったのではないでしょうか。 
Commented by おやじ at 2010-05-23 12:36 x
いえいえ、家の周りにというか敷地にある遺跡について詳しく知りたいという欲求は常にあったのです。

よろしく、ご指導ください。

で、上屋敷共同墓地内にある阿部薩摩の墓ですが、偽物という説もあるようです。
それを実証すべく拓本に挑んだ方々がおられますが、拓本に失敗し、そのいしぶみに刻まれた文字を解読できなかったようです。

また、大谷地村の開墾には米沢藩士の身分のまま、指揮にあたったグループと、帰農し屯田兵化したグループが共同してあたったようです。

屯田兵グループは、その後、末子相続騒動で信達が召し上げられたとき当地に残されてしまったわけですが・・・。

私の遠い御先祖様も、宮代(山王さまのとこ)の地で帰農した屯田兵グループでした。
で、明治に入りこの地に入植したお人が我が家の初代さんです。
Commented by おやじ噂話を語る at 2010-05-24 12:40 x
これはあくまで巷の老人たちの噂話ということで、はい。

先に出しました本間家、武田家はこの大谷地村開墾時に帰農入植したグループのリーダー格だそうです。
立場上、生活が容易な伏流水の湧水地帯に居を構えた本間家が上位のようですが、、、、。

この薩摩堀は熊野神社東側から湧水地帯(笹谷駅周辺)までの間を開墾するのが目的だったと思われます。
つまり、熊野神社周辺の大地主、武田家の方が、開村の実質的な中心家系ではなかったのかと思われます。

それなのに、ここで阿部家の話は出てこないのですよね・・・・。

松川の向かい側、萱場地区の阿部家が薩摩の末裔であるという噂話を聞いたことがあるのですが・・・。
Commented by おやじ妄想中 at 2010-05-25 14:47 x
シンさんの説をおさらいすると↓でよろしいでしょうか?
暇なとき水路を探ってみますです。

第1段階 上杉家臣団による開削(薩摩堀の時代)
矢野目畑付近より取水。熊野神社東側より笹谷駅近辺までの荒野を開墾。余剰水を湧水に加水し矢野目地区の耕地拡大を図る。

第2段階 大渠開削(大渠と竹之花渠の併設時代)
水神様より北方へ新用水路を分岐開削し、八反田川流域に加水。耕地の拡大を図る。

第3段階 笹谷大堰大改修(水利組合分立の時代)
堰の大改修を実施。水路の各分岐点の変更を伴う。

第4段階 栗本堰接続(土地改良区の時代)
現在の姿となる。

ですかね?
当方は上杉家臣団がどこを開墾したのか?を原点に薩摩堀探しにうろついてみます。
気になる水路は前田川の南に3本、北に2本。
Commented by shingen1948 at 2010-05-27 06:06
 今、この辺りを散歩しようと思った原点の資料を見ています。
 確認すると、いろんな想像が入り込んでいるなと思います。思っているより、もっと曖昧なはずです。
 
 笹谷大堰の矢野目畑付近より取水が、第一段階というのはいいのですが、現在みている水路は完成形です。
 これが最初の開削という可能性と、最初の開削は、少なくともこれより下流(もっと低地の開発)という可能性が考えられるような気がします。
 上杉家臣団による開削のスタート地点は、まだ曖昧だと思っています。
Commented by おやじチョット本気モード at 2010-05-27 12:29 x
なるほど。

幹線水路を一本どーんと通してから、開墾しやすい場から、、。
ありえますね。

堰堀の改修は、元々あった堀を使えるものならば利用するはずですから。
どこかにきっと薩摩堀の痕跡はあるはずと見ます。

自然の地形を利用して掘割したはずですから、直線的な水路は後世のものとみてよさそうですね。

二郡村史の竹之花渠の記載↓

> 小渠細洫ニ分チ 支渠又支渠ヲ生シ 

を念頭に面影探しをしてみます。
おらがガキの頃の原風景も、、最大限使ってみます。
Commented by shingen1948 at 2010-05-31 19:07
 私もちょっと本気モードで、松川の堤防から矢野目堰と矢野目畑の間の南北に走る主な水路を確認してみました。
 現在、排水路になっているのでしょうか。水神様から松川に向かう水路と、笹谷第3ポンプ場あたりからの2本のようです。
 二郡村誌の北沢又村を確認すると、大谷地渠が南綱島取水で、大谷地経由狐塚に至る記載があります。住宅地図と、小字で確かめると、水神様から松川に向かう水路のつきあたりが、この南綱島のようですね。
 矢野目渠の水路を新渠としていますので、時代は矢野目渠より古いということのようです。
 散歩人としては、薩摩堀はさておいても、南綱島→大谷地の沼地→狐塚あたりの雰囲気が気になり出しました。


Commented by おやじ@忙しい at 2010-06-01 10:05 x
6月13日、20日、27日と3週連続で地域の歴史、遺跡の講習会があるようですよ。@信陵学習センター(笹谷)

おらは行けそうにないっす。
Commented by shingen1948 at 2010-06-01 18:35
 「福島市史」の立場を確認しました。「阿部薩摩の墓近辺の堀を薩摩堀という」ということでした。
 笹谷城は仁井田館で、他に館として、勘次郎館と中条館があり、勘次郎館は原林→上屋敷の西側一帯の高台ということでした。
 福島市の職員も、福島市史と違うことを示し、福島県の資料も別なことを言っているということのようです。
 なお、この時代、沢又には、足軽頭がいて、50人の足軽が警備にあたっていたということです。

 大谷地中心に、上杉家臣の動きを想像されたことは、福島市史と同じ立場のようですよ。

 地元の感覚と近いようですし、散歩での実感とも近いので、今のところ信用できそうだなと思っています。
 福島市の職員の方も、マホロンの基本データも違っているのだと思うのは、確信に近いです。

 講習会情報ありがとうございます。でも、分からないから探るというのが好きなので、遠慮します。
Commented by おやじガイド at 2010-06-03 19:35 x
「阿部薩摩の墓近辺の堀を薩摩堀という」

なるほろ。
んでは案内できますよ。昔の香りのするところなら。

大荒神社の周辺に東北道開通以前の前田川跡が空堀となって残ってます。
前田川、高速道路開通前はコンクリートではなかったのですよ。

また、U字溝に代わっても水田の間をくねくねと流れ、昔の面影がある水路もあります。

聞かれたら、その辺を「薩摩堀」と言っておきますかw
Commented by shingen1948 at 2010-06-04 20:44
 笹谷の歴史は、大笹生の一部でしかないのですが、上杉時代から著しい開発があって、大谷地という村も登場するということのようですね。
 ですから、具体的に阿部薩摩の開発資料があるとのではなく、この大谷地を中心とした上杉家臣団の開発の象徴としての阿部薩摩ということのようです。
 大谷地近辺の上杉家臣団の開発の跡は、おっしゃる通りの風景で、それを探るということが、散歩のポイントのようです。
 なお、阿部薩摩の墓についてですが、魂と肉体という二元論で捉えますし、後年に建てられたものだと考えられます。ここでは、魂が祀られていると考えられるので、その真偽にこだわる必要はないのではないかなと思っています。
Commented by shingen1948 at 2010-06-04 21:03
(追)
 「松川左岸から栗本堰、一の堰、笹谷大堰の三堰各水利組合が個々に取水していた……」の一の堰は、大谷地渠で、取水口が南綱島ということのような気がしてきました。
by shingen1948 | 2009-01-09 04:47 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(19)