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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫の里の天地人③

  天地人にかかわって、土湯温泉は上杉家臣の開発だったり、兼続の息子を療養させたた温泉だったり、九山禅師の隠居地にする等々とかかわりが深いようだ。
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 それに対して、「高湯温泉400年史」は、天地人の支配に否定的な立場で整理している。
 特に1601年の120万石から30万石へ減封された時の年貢の取り立ての厳しさを記述する。
 信夫郡と安達郡が上杉の領地に残ったことで、あぶれた家臣たちが信夫の里に移り住んできたとする。中でも万治2年(1658)の「万治の縄」と呼ばれる大検地で、公称12万石を22万石と査定したとし、信達地方の農民は仙台方面に逃散する者が続出したと紹介している。

 信夫の里は、会津の領主が蒲生氏から上杉氏に代わると、その会津の領主がおさめるようになっていた。この時、上杉氏は、120万石で陸奥国仙道、信夫、伊達、出羽国米沢、庄内、佐渡にまで及ほしている。その中の信夫、伊達、出羽国長井の32万石は直江兼継が支配した。
 また、ここ信夫の里は、伊達政宗の旧地であり、この地の奪還チャンスをうかがっている。
 1600年関ヶ原の戦いの結果をみて、伊達政宗は、信夫伊達地方に攻め込んでくる。「高湯温泉400年史」は、その時の領民の動きも、政宗が領主時代の愛着として整理する。
 政宗が、米沢や会津と連絡を絶つ戦術として、庭坂と大森に軍をすすめると、庭坂の村民も立ち上がったとする。これを、高湯温泉の安達屋の祖である菅野国安が、伊達家の家臣であったことを例にする。それに、伊達氏が領地を離れて以来、目まぐるしく支配者が変わって翻弄され、上杉は自分達を押さえつける占領軍に映ったらしいという視点も加える。

 この領民の動きにかかわって、福島県文化振興事業団のホームページでは、微妙に表現が違う。
 伊達市の懸田城跡写真解説に、「慶長5年6月から7月にかけて、伊達政宗によって扇動された郷民が立て籠もったと伝えられる。上杉軍はこれを撃退しますが、多くの農民が被害に巻き込まれました。」と表現する。
 なお、米沢の兼続への情報遮断については、大鳥城の写真の解説で「大鳥城は、信夫庄司佐藤基治の古塁跡でしたが、松川合戦のときには伊達軍が占拠し、米沢にいた兼続への情報遮断が図られています」とその作戦の存在を示している。

 先に整理した様に、実際の戦いでは、上杉氏が優勢に戦いは進む。特に、西軍の挙兵によって、徳川家康が上杉討伐を後回しにして西に向かうと、直ぐに最上領を侵すという勢いがあったようだ。
 それでも、関ヶ原の西軍の敗北の結果を受けて領地がえになる。ただ、信夫郡の領民にとっては上杉領のままであり、伊達政宗にとっても旧地奪還はならなかったということでもある。
by shingen1948 | 2008-12-31 05:18 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)