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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫の里の天地人②~学問所「禅林文庫」の開設と土湯

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 藩学の基として、後に上杉鷹山が創設した興譲館へと受け継がれることになる学問所「禅林文庫」の開設に関わる九山禅師の墓は、土湯にある。
 先に土湯を散策した時点では、天地人とのかかわりを意識していなかったのだが、直江兼続が大河ドラマになるとのニュースから2007.10.27に「直江兼続と九山和尚」として一度整理した。
 福島県文化事業団なども、ブームに便乗して情報を流し始めたので、最近の天地人にかかわる情報をつなぎ直してみる。

 兼続は、岩城の九山禅師(妙心寺115世の高僧)と宇都宮で知り合い、九山禅師に金を与えて下野足利学校で勉強させていた。
 それを、米沢移封から17年目の1618年に、兼続は足利学校で学ばせていた九山禅師を呼び寄せて、後に法泉寺と名を改める禅林寺を創建し、米沢藩士の子弟を教育する学問所「禅林文庫」を開設する。ここにあつめた兼続の蔵書は、今でも貴重な文化財として残っているという。
九山禅師は、ここに京都天竜寺の名園をまねて庭園も造っているが、これを歴代藩主も愛し、上杉鷹山もこの庭園で詩会を催しているという。
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 兼続は、元和元(1615)年には、土湯に九山禅師の隠居寺となる興徳寺を建立している。創建当初は法得寺という真宗本願寺派であったが、途中から、臨済宗妙心寺派の興徳寺となったようだ。
 九山禅師がここに隠居してからも、藩主は、禅師の健康を気遣ったという。福島市内のお寺には、景勝の子 上杉定勝が九山禅師の健康を気遣う手紙が残されているという。

 兼続は元和5年(1620年)江戸屋敷で病死するが、九山禅師は、寛永13年(1636年)ここ土湯の興徳寺で没する。そのお墓が、土湯小学校西側の高台にある。

 つないだ源情報は、次の3つだ。
その一つは、戦国武将・直江兼続の情報や兼続ゆかりの地を、山形県米沢市から発信するという「直江兼続・米沢.com」。「法泉寺」で、九山禅師についてふれている。
 それによると、米沢移封から17年目の1618年に、兼続は足利学校で学ばせていた九山禅師を呼び寄せて、後に法泉寺と名を改める禅林寺を創建する。その寺内に米沢藩士の子弟を教育する学問所「禅林文庫」を開設したとのことだ。

 その二が、福島県文化事業団のホームページで、「九山禅師の墓」の写真に、次のような紹介文を載せている。
 学問修行の道場として米沢に禅林寺(その後に法泉寺と改称)を開山するにあたり、直江兼続が米沢に招いた九山禅師の墓所(福島市土湯)。兼続は、九山禅師の隠居寺として、元和元(1615)年に土湯に興徳寺を建立しています。なお、景勝の子 上杉定勝が九山禅師の健康を気遣った手紙が福島市内のお寺に残されています。

 その三は、地元の「宿六修行中」というブログ。
 ここでは開山年代から改宗理由についてについて推定をしていることを参考にする。
 九山禅師が米沢で開山した米沢禅林寺(現法泉寺)は元和4年(1618)の開山で、土湯の興徳寺建立より遅いことを、九山禅師を米沢に、招き入れるための足がかりとして、興徳寺を改宗させたのではないかと推定している。
by shingen1948 | 2008-12-30 06:28 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)