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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「信夫の里」の天地人

 散策はしたが、未整理のままになっているのはいくつかある。その中から、阿部薩摩守について整理しておく。
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 この墓碑に出会ったのは、笹谷城を探している時だが、この城跡は、まだ見つけていない。この城「山形・宮城・福島城郭」では、所在地が、福島市笹谷字道本林であることと土塁、空堀が残るとあるだけで、ほとんど何も記述されていない。
 高速道路の東側を探っていたが、ひょっとすると、高速道路の西側かもしれないとも思っている。


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 その高速道路東側の墓地に、阿部薩摩守の墓の標識が立っている。そこには、上杉氏家臣で越後国村上の産であることと周辺の開墾に尽くした武士だということが記載されている。
 この方は、ここ笹谷や土湯村、そして、李平を開拓した方だと聞いている。李平は、米沢と福島を結ぶ米沢街道の庭坂宿を過ぎて、板谷の山中の宿場である。現在は、万世大路ができて廃道になっているが米沢藩が参勤交代に使う道だったと聞く。この参勤交代の道は、先に整理した舘下橋につながり、大森に抜ける街道だ。

 この話は、散策だけでは面白みがない。いま流行りの「天地人」と、ここ信夫の里とのかかわりを確認することで、散策の楽しみが増える。

 散策の興味を持つための確かめは、次の3点だ。

 その一つは、伊達氏とのかかわりだ。ここ信夫の里は、伊達氏の旧地だが、秀吉に没収され、会津の蒲生氏領となる。その後に入った上杉氏の支配も受けているという経緯でのかかわりだ。
 慶長3年(1598)に、上杉景勝が会津に移封されるが、その8月には豊臣秀吉が没した。
覇権奪取を狙う徳川家康は、慶長4年(1599)に伊達家との婚約を進めて、伊達政宗との協調を深める。政宗にとっては、旧領奪回へのチャンスである。並々ならぬ意欲を持って伊達・信夫への侵攻を試みているようだ。
 様子見もあった政宗は、慶長5年(1600)9月30日に関ヶ原合戦で、徳川家康が勝利したとの情報を得て、手薄になった伊達・信夫への侵攻を再開する。

 その二が、上杉氏は、禄高を減らされていることにかかわることだ。山形に移る時には、更に禄高を減らされているが、それでも家臣を減らすことがなかったという事情がある。領民からすると、そこに、年貢の取り立ての厳しさとのかかわりがある。
 慶長6年(1601)8月には、徳川家康に、上杉景勝と直江兼続主従は、4分の1の30万石で米沢への移封を言い渡されている。その内訳は、長井・伊達・信夫の3郡であるが、これをこの信夫の里側からみれば、上杉の領地のままであったということである。

 その三が、その二と同じ理由によって、信夫の里には多くの上杉の家臣が入りこみ、開発が行われているということとのかかわりだ。
 用水路掘削を伴う新田開発は、生き残りの命運を賭けた事業だった。上杉家家臣は伊達・信夫の新田開発に心血を注ぐ。西根堰による新田開発は、この地区では有名な話で、古河善兵衛・佐藤新右衛門らは神格化されている。
 
 この笹谷を阿部薩摩守が開発したという話は、その三の具体例である。
 この村での用水路掘削を伴う新田開発とかかわって、薩摩掘りというものがあるとのことだが、心当たりはあるが、これだと確信がある散策にはなっていない。

 彼らの努力もむなしく、寛文4年(1664)には伊達郡と信夫郡が召し上げられ、上杉家の領地はついに米沢15万石のみとなる。信夫の里としては、形式的にはここで「天地人」とのかかわりは消える。しかし、実質的には、彼らが残した用水路は、その後も信達盆地を潤し続けているし、この地に残った家臣もいるということでのかかわりがつながっている。
by shingen1948 | 2008-12-29 07:25 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)