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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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桑折陣屋

 桑折宿は、何度も通っているが、常に通過点だった。伊達氏を求めて、その関連の史跡を回る時も、阿津賀志山防塁関連の史跡を回る時も、奥州街道を確かめる時にも、何度も通っている。あちこち立ち寄ってもいるが、そのままになっていたということで、奥州街道のカテゴリーで少し整理しておこうと思う。
 
 伊達郡の要である伊達郡役所だが、これは代官所が置かれた陣屋跡に置かれたようだ。

 明治維新後の桑折町は交通の要所と周辺の経済的中心地だった事から伊達郡役所などの施設が設けられ政治的にも重要な地位に位置づけられたのだが、歴史的には、奥州仕置き後の桑折町は短期間に支配が次々に変わる土地柄だったようだ。
 寛延2年(1749)からは代官所支配となり明治維新を迎えたということのようだ。
 ただ、半田銀山の開発が盛んになる頃は幕府から重要視され、桑折町一帯は佐渡奉行の支配下に置かれるようになったということがあった。
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 実際の陣屋跡は、この郡役所の東側とのことで、案内板が建っている。


 桑折陣屋
 桑折周辺の信達地方は、江戸時代に入ると、米沢藩上杉領となりましたが、寛文4年(1664)に幕領へと移り、幕府代官所が福島に置かれていました。
 その後、信達地方は一時福島藩本多氏領となりましたが、再び幕領となり、堀田氏の福島藩入部に伴い、残された幕領を治めるため、貞享2年(1685)に 幕府代官所として桑折陣屋が設置されました。
 初代桑折代官は柘植伝兵衛でした。元禄13年(1700)松平忠恒が2万石で桑折藩を開き、陣屋を使用していましたが、松平氏は定府(参勤交代せず、江戸に常任している大名)であったので、桑折陣屋には代官を派遣して当地を治めていました。
松平氏は3代忠暁のときの延享4年(1748)上野篠塚に天封になりますが、その理由は、半田銀山に有望な鉱脈が発見され、これを幕領とするためとされ、陣屋内には銀山関連の施設があったことが窺えます。
 翌寛延2年(1748)に神山三郎左衛門が桑折代官として赴任し、一時の仙台藩の預かり支配期を除き、明治元年(1869)に前田勘四郎代官から 新政府に引き渡されるまで、代官が派遣されていました。
 その間、陣屋は齋藤彦内 ・蓬田半左衛門が首謀者となって「寛延一揆」に囲まれたり、竹内平右衛門・寺西重次郎・寺西蔵太・島田帯刀等民政や銀山開発に尽くした代官の治政の場となる等、当地方の中心として機能しました。代官の中には、竹内代官や寺西重次郎代官等のように、桑折で死去し、町内に墓所があるものもあります。


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 陣屋は、郡役所敷地より東側、陣屋の杜公園より北側の現在は住宅地となっている部分を占めていました。

平成17年3月
桑折町教育委員会



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 案内板には、陣屋の概要図も掲げられている。確かめてみようと、杜公園回ってみる。


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 北側を眺めてみるが陣屋跡の面影はない。


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 東側に回ってみると、石垣はあるが、これが陣屋跡とかかわるものなのかどうかは分からない。その上には普通の民家が建っている。


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 この地区は、支配者による文化の構築というよりは、奥州街道と羽州街道が交差する宿場であることから、多くの風流文化が流入してくるということだったようだ。
 田植え塚などは、そういった俳諧文化の繁栄といったことの象徴とする史跡と見ればよいのだろうか。
by shingen1948 | 2008-12-20 09:40 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)