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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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青葉通り②

青葉通り②_a0087378_19592438.jpg
 青葉通りの起点辺りに火の見櫓風モニュメントが建っている。
 大町頭に建っているのは、格式ある町人町の頭である誇りを表しているらしい。

 案内板によると、町大町・肴町・柳町・立町・南町・荒町の6町は、伊達家と共に米沢から移ってきた町衆の町と言うことで特に御譜代町と呼ばれていたという。
 仙台には、侍屋敷をのぞくと24の商人町があっ、町方24町と呼ばれたそうだ。その町にも格があり、筆頭が大町ということだ。

 御譜代町の由来
 江戸時代の仙台城下には町方24町の町人町があり、町の秩序が決まっていた。その筆頭は 大町で、以下 肴町、南町、立町、柳町、荒町と続くが、ここまでの6町は、伊達一族または伊達政宗公に従って米沢・岩出山・仙台と移ってきた伊達御供の町であることから、御譜代町と称した。
 御譜代町は仙台城下建設の時、城下の中心をなし、また伊達御供の由来を誇るだけでなく御譜代町の6町は仙台藩から特権を与えられていた。
 大町1丁目(古着)大町234丁目(呉服・木綿・小間物)、大町5兆流目(油)肴町(魚類・塩魚・干魚・生魚)、南町(八百屋物・荒物)立町(穀類)柳町(茶)、荒町(麺)と重要な 商品の専売権を持っていた。この特権も延宝3年(1675)に 廃止されるが、変わりにこれらの商品を扱う城下の町人から一定額の役金を取り立てる権利を与えられた。
 しかし、町人達は先に廃止された特権回復をはかり、やがて大町は、古着・絹布・木綿・ 小間物・操綿・薬種の御売独占権、立町は4穀町の一つとして、穀町・新伝馬町・二日町と ともに穀類御売権を持つようになるなど、御譜代町の町人は、商業上の特権を持つ町として 仙台城下の経済の中心としての地位を保った誇り高き町衆でありました。

 格式ある町人町の頭である誇りと対照的なのが、東一番丁らしい。丁ということで、元々は侍屋敷の町だったらしい。それが商店街に様変わりする歴史は、戊辰戦争で敗北した仙台藩が、石高を減らされて大量の没落士族を生んだ歴史と重なるらしい。
 1871年(明治4年)に廃藩置県、1873年に徴兵制、1876年に廃刀令および秩禄処分と、藩士を支える組織、特権、経済基盤が次々と剥奪されていく。
 東一番丁には、仙台藩の重臣だった山家豊三郎邸があったが、そこで、藩士たちに商売をさせたとのことだ。
 その後、この界隈に、芝居小屋、映画館、寄席、喫茶店、芸妓置屋、露店などが立ち並ぶようになり、国分町の裏町で、新興の商店街として賑わうようになったとのことだ。

 実際には、駅ができたり、その他の施設のかかわりがあったりと別の要素で商店街は息づいているのだろうが、立ち留まればそれぞれの商店街にもそれぞれの誇るべき歴史があるということか。
by shingen1948 | 2008-12-16 20:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)