仙台散策余談②~青葉通り
2008年 12月 15日
青葉通りは、仙台駅から一番町を通り西公園までの通りで、そのケヤキ並木が「杜の都・仙台」の象徴とされている。
さとう宗幸の大ヒット曲「青葉城恋唄」(1978年)のフレーズが頭の中を流れる。季節としては違うのだが、杜の都イメージはそのままだ。
青葉通り薫る葉緑 想い出は帰らず
樹かげこぼれる灯に 濡れていた君の頬
時はめぐり また夏が来て あの日とおなじ通りの角
吹く風やさしき杜の都 あの人はもういない
いつもなら、バスで通るのでそのまま通過してしまうのだが、気になっていたのが、晩翠草堂だ。ちょっと立ち寄ってみる。
邸の前には、「天地有情」の碑があるが、これは旧制2高の教え子が晩翠に贈ったものとのことだ。
案内板には、旧制2高の教え子と教室での写真が掲げられている。
土井晩翠は少年時代から新体詩や英文学を愛好し、旧制二高進学後は「尚志会」雑誌に詩を発表、東京帝国大学在学中には、高山樗や大町桂月などと「帝国文学」の編集委員を務めた。明治32年(1899)、樗牛らの支援を受け、第1詩集「天地有情」を刊行、清新な熱情と叙事詩的な作風によって、詩壇を二分する晩翠・藤村時代を形成した。
明治33年(1900)旧制2高の教授となり帰仙すると、欧州遊学の一時期を除き仙台を離れず、詩集「暁鐘」「東海遊子吟」「曙光」などを次々と刊行し、詩人としての名声を確立するとともに、ホーマーの「イーリスアス」「オヂュッセーア」を原典から完訳するなど、文学史上に大きな足跡を残した。晩翠作詞・滝廉太郎作曲の「荒城の月」は、明治34年に中学唱歌に採録されたもので、世界の人々に愛唱されている不朽の名作である。
こうした業績に対し、昭和25年(1950)、詩人として初めて文化勲章が贈られている。昭和27年(1952)8月、仙台城本丸跡に「荒城の月」詩碑が建立されたのを見届け、間も無く永眠した 。享年80歳であった。
昭和20年、戦災によって旧邸と3万冊もの蔵書を焼失するという苦境に陥った際、晩翠会の人々が発案して晩翠草堂を建設し、贈っている。
詩壇を二分する晩翠と藤村だが、先に訪れた仙台城本丸から、藤村の次の詩碑は移転していた。
心の宿のみやぎ野よ 乱れて熱きわが身には
日かげもうすく草枯れて 荒れたる野こそうれしけれ
独りさみしきわが耳は 吹く北風を琴ときき
かなしみふかき吾が眼には 色無き石も花とみき
「島崎藤村詩碑の移転について」の案内板によるとその経緯については次のように説明されている。
島崎藤村(1872から1943)は、明治29年(1896)、東北学院の英語と作文の教師として仙台に赴任した。10ヶ月という短い滞在ではあったが、みちのくの豊かな自然と静かな環境そして人々との温かなふれあいによって、新たな日々を過ごした。仙台の地で創作された詩は、「若菜集」として出版され、日本近代史の原点とも言える作品となった。
藤村碑は、昭和11年(1936)に八木山の地に建立され、昭和42年に(1967)八木山動物公園整備に伴い、仙台市内を一望するこの青葉山公園(仙台城址に移設され、40年間にわたり、土井晩翠碑と共にこの青葉山の地にあった。
平成19年夏、仙台市宮城野区名掛丁にあるゆかりの下宿跡の広場に移転されることになり、藤村詩碑は、最もふさわしい安住の地を得たのである。
仙台市
後で、仙台に住んだことのある人に聞くと、この背景には誇りに思う人と思わない人がいて、その評価の感情が働いているかもしれないともいう。
邸の奥は、仙台ユネスコ会館とのことだ。案内板には次のようにある。
昭和22年(1947)、仙台ユネスコ協力会が発足した。これは世界初の民間ユネスコ協会であり、発足式において、「日本人がユネスコを通して世界平和に貢献する」決意が表明された。この声明は障子紙に書かれてパリのユネスコ本部に送られ、その年に開かれたユネスコ総会で大きな反響を呼んだ。
国際連合加盟の5年前に仙台の地でスタートした民間ユネスコ運動は、日本の国際社会への復帰と貢献の原点であり、ユネスコへの加盟が認められる原動力ともなった。其の後の様々な活動等も評価され、昭和59年(1984)第一回民間ユネスコ運動世界大会が仙台で開催されている。
西公園をすぎると、「広瀬川流れる岸辺」にかかる大橋にたどりつく。川の向こう側が、目指す青葉城である。その三の丸が仙台博物館だ。
ここに「青葉城恋唄」のぴったりのフレーズ
広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず
早瀬躍る光に 揺れていた君の瞳
季節(とき)はめぐり また夏が来て
あの日とおなじ流れの岸
瀬音ゆかしき杜(もり)の都 あの人はもういない