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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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武家屋敷の雰囲気を求めて

 仙台城の本丸を後にして、坂道を下りはじめた所で、ボランティアでガイドをしている方に声かけられた。
 道々、伊達政宗の遺跡についていろいろ話しながら一緒に坂道を下った。その中で、昭和20年の仙台空襲で大切な遺跡が焼失したことの話が、印象的だった。
 大手門や脇櫓、政宗の廟所である瑞宝殿、そして、三の丸の南東側にあった巽門は、この空襲まで、残っていたとのことだ。
 瑞宝殿は、昭和6年(1931)国宝に指定されていたのに、この戦災で焼失し、現在の本殿は、昭和54年に再建されたものという。二代藩主、伊達忠宗公の感仙殿も、明治初年に本殿を除いて取り壊されていたが、残った本殿も、三代目藩主伊達綱宗公の善応殿も、この戦災で焼失したとのことだ。両方とも、昭和60年に再建されたという。大手門の脇櫓も、昭和39年に復元されているが、大手門や巽門は、失われたままで、残念至極なことだと残念そうに話された。

 山を降りで、青葉通りを駅に向かう途中、来るときには気がつかなかった案内板が建っている。何だろうと覗いているうちに、学習ボランティアの方とはぐれてしまった。ご挨拶もなく別れてしまった。
武家屋敷の雰囲気を求めて_a0087378_7281140.jpg
 綱村母公浄眼院生家
 三澤邸跡
 ここは藩政時代仙台藩の重臣三澤氏邸宅のあった所である。三澤氏は出雲三澤城主左京亮為虎を祖とし清長に至って一女一男あり、初子、又四郎という
 初子怜悧にして容姿端麗、三代藩主雄山公綱宗の準夫人となり亀千代則ち四代藩主肯山公綱村公が二子を生み演劇伽羅先代萩の政岡に仮託せられて世に名高い弟又四郎亦伊達氏に仕えて、三澤信濃宗直と改め、延宝3年綱村初入部に際し、外戚の故を以て一門にて列し三千石を領した、世、これを異数としたが、綱村幼時伊達騒動渦中に生い立ち母公の苦心擁護の恩に報ずるところという○来歴代藩主三澤邸を浄眼夫人生家とし邸前を輿中会釈して過ぐるを例とした。
もとここに堅引雨丈の鬼瓦を上げた旧玄関の遺構を存したが撤去に当たり記して史跡を後世伝える。
昭和36年7月

  伊澤平勝 書
  三原良吉 文
  鈴木彦治建之

 このまま青葉通を駅に戻ろうとしたが、ガイダンス施設で頂いた「仙台城見聞館」というパンフレットにあった片平丁の石垣というのが気になった。片平町は屋敷町だったと聞いている。

 標識だけをたよりに迷い込んで、石垣をイメージして歩いて行くと、直ぐに目につくのは、原田甲斐の屋敷跡の案内板だ。ここは、仙台高等裁判所とのことだ。
武家屋敷の雰囲気を求めて_a0087378_730212.jpg
 原田甲斐邸跡
原田氏は代々伊達家宿老の家柄であり、家老(国老)甲斐宗輔の時は柴田郡船岡4380石を領した。
 万治3年(1660年)亀千代がわずか2歳で伊達家を相続したことによりその後起こったいわゆる伊達騒動(寛文事件)における中心人物の一人である甲斐は、寛文11年(1671)3月27日大老酒井邸で伊達安芸を切り、自分も同所において果てた。
 仙台市
 
 武家屋敷の雰囲気を求めて_a0087378_733432.jpg
 そこを進んでいくと、目標の石垣があった。
 
 この町、伊達政宗の御霊の道案内があったりして、確かに歴史を感じる町である。
 しかし、強く醸し出しているのは、城下町というよりは、近代のよき時代の雰囲気である。
by shingen1948 | 2008-12-13 07:46 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)