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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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仙台城の散策⑥~カテゴリー整理について


 とりあえず、仙台城の散策を、「会津への道」のカテゴリーとして整理しているが、本当は「会津への道その後」とてもいうべきだろうか。
 会津への道のクライマックスは、黒川城を落として会津へ入城するあたりまでで、今でこそ仙台は東北一の都だが、ここへの入城は、伊達政宗にとっては、豊臣秀吉によって押し戻された結果でり、仙台の伊達政宗物語は、不本意な結果を引きずっていると思うのだ。

 会津へ入城したときに、相手の蘆名義広は常陸に逃がれ、蘆名氏は滅びる。更に、須賀川城の二階堂氏をも滅ぼして、政宗は奥州南部のほとんどを手に入れる。
 その二階堂氏の怨念が、須賀川たいまつ明かしの祭りとなって残る。
 ここまでは、政宗の意志に沿った全盛期なのだ。

 会津に政宗が入城する頃と豊臣秀吉による天下統一が完成に近づくころが合わさっている。
天正18年(1590)7月には小田原北条氏を滅ぼしているのだが、この時、政宗は小田原参陣が遅れたとの理由で苦境に立つ。この危機を、秀吉への臣従を誓って本領を安堵されて乗り越える。
 だが、蘆名氏との戦いは私闘であるとされて、せっかく手に入れた会津領などは没収されてしまった。一時は 150万石あった所領は半分の72万石となってしまう。
 翌年の葛西大崎一揆では、蒲生氏郷とともに平定するが、一揆を扇動した疑いをかけられてしまう。政宗は上洛して秀吉に弁明して許されるが、米沢城から玉造郡岩出沢城へ移され、所領も58万石に減らされる。政宗は岩出沢城を岩出山城と改名して入る。
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 これは、仙台市博物館に掲げられた伊達政宗が築城した仙台城本丸の模型だが、この仙台の築城を考えたのは、岩出山城が領内の西北に位置するためらしい。慶長5年(1600)から、青葉山での築城が開始され、千代も仙台と改めたとのことだ。

 豊臣政権下では五大老の一人として重きを置かれていたが、関ヶ原の合戦では東軍として上杉景勝と戦っている。ここで、政宗は百万石の大名を目指していたが、南部氏領内での和賀一揆を扇動した疑いがかけられ2万石の加増にとどまってしまう。しかし、仙台開府の許可は得ることができたということだ。
by shingen1948 | 2008-12-11 04:22 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)