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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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湯野不動寺に立ち寄る

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 鈴木啓氏が、霊山寺の由緒を推定するための資料として、福島市湯野の不動寺縁起に注目した。
 その不動寺に立ち寄ってみた。

 氏によると、類聚国史に天長7年(830)山階寺(奈良興福寺)僧智興が建てた信夫郡菩提寺が、定額寺(準国分寺)に昇格したとあるという。
 ここに記載された信夫郡菩提寺が、昨日整理した西原廃寺であり、その後身がこの不動寺だということだ。
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 来てみて思い出したのだが、若いころ、近所のおばさんに連れられて、御開帳なるものに付き合ったことがある。何のどんな御開帳だったのかは思い出せないが、多分、何年かに一度というチャンスだったとのことだったと思う。
 おばさんはありがたいという思いを全身に漂わせていたという漠然とした雰囲気だけを思い出す。
 定かではないし、記憶違いかもしれない。ただ、ここに来たことがあるのは確かだ。
 その頃、西原廃寺の名前は知っていた。しかし、その寺の由緒とか、その寺とこの寺が繋がっていることなどという意識は無かったし、興味もなかった。


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 寺前にある不動寺案内板には、いろいろと記載されているが、定額寺に昇格したことを含めて、寺の経緯概要を整理すると、次のようなことのようだ。


 山階寺(奈良興福寺)僧智興が信夫郡菩提寺を創建する。
 ○ 802年 比叡山衆徒の兵火にかかり滅び、その後、弘法大師が道場を再興して真言宗の寺としたとする。(案内板)
 ○ 830 定額寺に昇格
 ○ 1171年頃 鎮守府将軍藤原秀衡公(平泉)が大檀那となり、当地方祈願所・菩提寺として栄えた。(案内板)
 ○ 1189年―文治5年の戦いで、大鳥城などとともに寺の堂塔伽藍も焼失した。(案内板)
 
 その後、1313年に藤原秀衡公の功績を讃えた記念碑を建立され、寺の名も5たび変わり幾多の変遷を経て、江戸時代に昔の不動寺にかえり現在に至っているとしている。(案内板)

 ○ 1686年に現在の本堂は建立されたもの。(案内板)




不動寺案内板説明内容

新狐山
不動寺の由来

 当寺は、むかし「高寺堂菩提寺」と称し、陸奥三山の一つで、末院は千有余あったといわれたが、802年に比叡山衆徒の兵火にかかり滅び(現西原廃寺遺跡-県指定史跡公園)。その後、弘法大師が東国行脚の折この地に立ち寄られ、零落の跡をみて「この地に高野山を移し、万民に菩提の縁を結ばしめる」ため、道場を再興して真言宗の寺とし、1171年頃には鎮守府将軍藤原秀衡公(平泉)が大檀那となり、当地方祈願所・菩提寺としてから栄えたが、嫡男康衡が公の命に背き、源義経を弑逆したため、鎌倉勢の攻めにあい滅亡。この時、大鳥城を始め秀衡公ゆかりの当寺も堂塔伽藍ことごとく焼失した。(1189年―文治5年)
 その後、1313年に公の功績を讃えた記念碑を建立、以来寺の名も5たび変わり幾多の変遷を経て、江戸時代に昔の不動寺にかえり現在に至っている。
 「新狐山」と号するのはこの地を「アラ狐の林」と言い、当寺の鎮守荒狐大明神を祀るからで、現在の本堂は1686年の建立、重厚にして華麗。山門は昔の中門である。境内には「峰の薬師」と呼ばれる古仏を安置する薬師堂や居座り地蔵、観音塀に囲まれた中の「正和の碑」や旧三州刈谷藩陣屋一族の墓、老紅梅などが往時の歴史と由緒を物語っている。

平成元年2月
福島飯坂ライオンズクラブ
by shingen1948 | 2008-11-23 04:34 | ◎ 西原廃寺 | Comments(0)