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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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湯野西原廃寺跡

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 この湯野西原廃寺跡は、何となく気になって何度か探したことがあった。なかなかたどりつけないで、そのままになっていた。


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 先に霊山町「宮脇遺跡」発掘調査説明会⑤~「霊山史談」で、鈴木啓氏が「霊山寺と善雄寺阿弥陀」の中で、山の霊山寺の調査を訴えていることを整理した。その訴えの根拠にした一つに、湯野西原廃寺があったので、もう一度探したくなった。

 氏は、不動寺縁起の陸奥の三山として由緒あるのは、大蔵寺・菩提寺・仁部(仁生)寺とのことから、霊山寺を中心に会津を拠点とする徳一の「法相教団」に対抗するため、天台の教団が対峙していたというのだ。


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 この中の、仁部(仁生)寺が霊山寺で、菩提寺が湯野西原廃寺だ。
 マホロンの「福島の文化財」では、湯野西原廃寺は次のように紹介されている。


 平安時代に建てられた寺院で、県指定史跡になっている。山階寺の僧智興が信夫郡に開いたと『類聚国史』に記されている「菩提寺」というお寺と考えられています。

 鈴木氏は、この中の山階寺の僧智興というのは、徳一と興福寺で同窓であるとしている。また、廃寺の金堂規模の大きさの考察から、恵日寺と同時期と推定する。菩提寺は、830年に定額寺に昇格するのだから、創建は、それ以前のはずだという。

 たどり着けなかったのは、路地へ入るべきところに何の案内もないからだということが分かった。たどり着いてみると、畠の中にフェンスが見える所で、知っている人にとっては、案内の必要性は分からないかもしれない。


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 赤錆びた案内板があった。そこには、遺跡復元の概要について説明されていた。もう一つ案内板があったようだが、そちらは支柱しか残っていない。


 遺跡の復元について

 昭和46年の調査によって発見された2つの建物跡を今回復元しました。さらにこの遺跡を保存するため、全体を覆土してカラー舗装を行いました。
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カラーアスファルトの中に配置されている大きな石は、左図のように柱の下に据えられ建物の礎石です。大部分は発掘時に残っていたものを用いましたが、不足のものは新しく補充してあります。礎石の位置は根石の上に配置したものであります。
建物の基壇は、南方建物跡の北側端に残っていたものをもとにして、「玉石積」による復元となっています、
 昭和48年3月
 福島市教育委員会a0087378_492251.jpg
 建物想像図があったが、よく見えないので、少しなぞった。
 


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 昭和47~48年というと、この辺りを何度か通っている。
by shingen1948 | 2008-11-22 04:25 | ◎ 西原廃寺 | Comments(0)