大波城趾
2008年 11月 19日
その案内板の「史実」とした部分が、この大波城なのか先に訪ねた小国城なのかで論争した部分なのだろう。
大波民部具成の居城
北畠顕家に従え吉野朝廷に仕えた大忠臣大波氏代々の拠れる城
史実
北畠顕家戦死後弟顕信陸奥内鎮守府大将軍となり後醍醐天皇の御孫守永親王を奉じて国政と軍政を執っておったが、正平7年3月足利軍に多賀城国府が包囲攻撃され同月15日国府陥る。顕信郷守永親王は刈田郡三沢城逃れられたので(今より630年前)正平7年3月17日大波城に守永親王と北畠顕信郷を迎えて守護した由緒の城である。
大雷神社 本丸趾 熊野神社 姫館 鞍清水 忠魂碑 千代桜
昭和57年6月建立
大波城趾保勝会
案内板によると、この本丸と思われる位置が、二の丸だという。
大波城趾の石碑がある部分は土塁ということなのだろうか。
検証済みなのかどうかは分からないが、二の丸に狼煙の炉が復元されている。ただ、狼煙が小国城と繋いで、霊山城までリレーされることは、十分に期待できそうには思う。
ここから一段下がった沼沿いに本丸の表示がある。館跡には違いないとは思う。ただ素人の感覚だと、ここが館跡であってもいいが、本丸は山の上であってほしい気もする。先の大波城趾の石碑のある部分が本丸でも、二の丸が本丸で、石碑の部分が土塁でも狼煙台でもいい。
現在、行政区で小国は伊達市霊山で、大波は福島市の行政区だが、昔はここに堺はなかったのだろうなと思ったことがある。
小国の海呑のあたりの人々は、大波城の家臣団だったという話を聞いたような気がする。どこかは忘れたが、先祖が遠くの方々ということだったと思う。
案内板に従えば、ここが姫館ということだ。
霊山の散策について、どのカテゴリーにするか、常に迷う。
伊達政宗の祖の動向とみるのか。
その伊達家は、奥州藤原氏との戦果としてこの土地を得たとみるのか。
伊達氏は、霊山の仏教を保護してくるのだが、結果的にはその保護された霊山の仏教の拠点に霊山城を築くことになり、仏教文化の衰退に導くことになってしまう。その守ろうとした仏教文化とみるのか。
南北朝時代の美しい部分の考古学資料は、適に配置されているようだが、それ以外の資料は注目浴びることなく、廃校になった学校に保管されていると聞く。
掘り起こせば、まだまだ奥深いものが出てきそうだと感じる。
非常に懐かしく思いました。
詳しく調べて下さり有難うございます。
何やら大昔の書物も有りますが、読めないのでそのまま放置しております。
対応が遅れてしまいました。すみません。使っていたパソコンが壊れ、ようやく新しいパソコンを購入したところです。4年ほど霊山町の小国地区とかかわりがあって、ここにはよく来ていたのですが、小国の海呑のあたりの方々が、この大波城とかかわる方々だったことを思出しながら、ここを整理しました。情報がありましたら教えてください。