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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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霊山町「宮脇遺跡」発掘調査説明会⑧~帰り道②

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 霊山神社への昇り口に、北畠顕家卿の銅像が建っている。
 その脇の案内板で、御由緒で以下のように讃える。


 御祭神・北畠御一門は和漢の学問に励み、その業績をもって朝廷に仕えた村上源氏の名門公家であるが、武家の覇権争いに政治。世情乱れて甚だしい南北争乱の御代、後醍醐天皇の行われた「建武の中興」に際しては皇室を戴く日本の麗しい国柄と歴史を明らかにして、また、武将としても天下国家の安泰、国民幸福の増進の為に多大な御功績を示された。

 更に、もう一つの案内板で銅像の北畠親家卿の御事蹟を南朝正統論の立場から讃える。
 歴史的に、霊山が南北朝の動乱時代に、南朝の中心的な拠点であったということだ。
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 これは、大石小学校あたりから見える霊山の山だ。この山に、建武4年(1337)北畠顕家は、南北朝の動乱に霊山城を築いた。そして、この要害の地を南朝勢力の南奥羽における拠点としたのだ。
 その後、顕家は伊達行朝らを従えて西上し、翌年5月和泉国の石津の露ときえる。霊山城もまた、相馬親胤に攻められ、貞和3年(1347)に落城し、霊山寺も焼失するという物語になる。
 この敗北が、結果的に霊山寺の消滅原因にもなる。

 菅野氏は、先の講演で南北朝に触れているようだが、この切り口に学生時代に感じた氏の面影がよみがえる。

 後醍醐天皇は、モダンで変革的な考えの持ち主で、天皇親政によって日本を独裁的に支配しようとしたとする。これを支えたのが、河内の新興勢力である油商人などで、抵抗勢力が、武士の存在だったとみている。
 これは、時代に逆行する動きであり、必然的に失敗に終わり、南北朝の戦いが起こったと評価する。
 敗因を、南朝方の武士は、天皇親政を求めながら、自分の所領は守るという分裂的な思想だったが、北朝方は、権力を守る利益の点で明快に団結できたと見るのだ。

 また、顕家の軍勢が、京都を支配するため攻め上る状況について「太平記」をもとに解説する。
 大軍が移動するのは凄まじいことで、太平記で50万騎とする大群が移動すると、前後5日間にわたり、幅4.5里で押し寄せ、道次の民屋を追補したとのことだ。
 それは、追剥と神社仏閣の焼き払いで、その大軍が通った後には在家の一字も残らず、草木の一本もなかりけりだったという状況のようだ。
 その軍勢は、信夫・伊達の武士兼農民だが、元来無慚無愧のえびすと悪訴評されたと紹介していた。
by shingen1948 | 2008-11-13 19:23 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)