地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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霊山町「宮脇遺跡」発掘調査説明会⑦~帰り道

 宮脇遺跡から、東に進むと、山際に霊山神社がある。ここに立ち寄ってみる。
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 この神社は、明治13年に古屋館跡に創建されたものだが、そのきっかけは、明治天皇の東北巡幸とのことだ。
 半沢氏のフィールドワーク地図には、明治天皇が巡幸の際、半田銀山で霊山を向いて黙礼したとある。明治9年(1876)夏のことである。
 明治天皇のこの行為で、伊達郡各村の上層部は、北畠氏を祀る神社の創建に湧いたという。
 霊山の方々は、この瞬間に誇るべき故郷を発見したということらしい。

 昔、中央公民館で会の名前は定かでないが「福島の歴史を語る会」というような感じの会に参加していたのだが、霊山にかかわるメモが見つかった。2000.7.12に菅野氏が「少し長すぎる序」として霊山神社創建の経緯が語られた部分だ。

 霊山神社創建が決まったあと、場所を大石村にするか石田村にするかでもめたらしい。しかし、大書記官中条政恒が見聞して、大石村に建てることになって、明治13年に竣工したという。
明治18年には、別格官幣社となり、北畠親房・親家・顕信・守親が祀られる。
 明治13年から15年にかけて、何の訴訟かはメモにないが訴訟が起きて、山頂に二つの碑が建てられたとのことだ。「霊山城之碑」(明治21年)と「義良親王霊山在御蹟碑」(明治33年)である。
 明治41年(1908)秋9月14日、大正天皇が皇太子の時に、霊山神社を参拝しているという。この時に、どこで躓いたとかというような事まで話された記憶がある。
 それはさておいて、人力車45台で赤坂峠を越えてやってきたという。この時、三上参次が実地調査をし、案内人の大石の安藤百恵に山中に残る霊山寺跡の礎石調査を説いたとか。これを受けて、大正13年(1924)「霊山史跡民衆調査会」が発足する。
 昭和2年(1927)には、霊山に銅碑が完成する。重くて石を運ぶことができないから銅にしたというような関係なさそうな話も記憶にある。
 その頃、県の調査官小比木忠七郎・八代義貞定・池内儀八・齋藤知賢らも調査し、大正14年には東大の黒板勝美氏も登山調査したという。
 「父もしね 子も死ねかしと君の為 つくしし勲尊しかりけり 黒板勝美」という歌もメモにある。
 昭和9年(1934)には、「史跡及び名勝」の指定をうけ、文人画家の登山が多くなり賑わったという。
 戦争と共に、北畠親家と霊山神社がクローズアップされ、昭和4年映画「霊山の親家」が製作され、小中学校の校歌に親家が謳われ、校章はささりんどうになる。
 霊山中腹の横断線は、昭和14年12月26日県道に昇格する。
by shingen1948 | 2008-11-12 05:49 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)