霊山町「宮脇遺跡」発掘調査説明会③~出土瓦
2008年 11月 07日
この遺跡から出土する瓦は、梁川地区の茶臼山西遺跡からで発見された軒平瓦と同じ文様を持つことが大きな特徴のようだ。この茶臼山西遺跡瓦は、現在県立梁川高等学校にあると聞く。
この茶臼山西遺跡は、東昌寺跡と考えられていて、伊達氏が創建した寺院の中でも室町時代には筆頭の寺院だったという。
そして、この文様は、京都の鹿苑寺の瓦の影響が考えられているとのことだ。
したがって、この宮脇遺跡は、伊達氏とのかかわりを示唆していて、その伊達氏は、強い京都志向を持っていたことが想像されているということのようだ。
現地説明会資料によると、霊山寺棟札写には、応永8年(1401)の年紀として藤原沙弥円朝、嫡子松太丸の名がみられるとのことだ。円朝は、伊達氏10代氏宗で、嫡子松太丸は持宗と考えられている。
したがって、霊山寺再建に深く伊達氏がかかわっているということのようだ。
また、寛文5年(1665)の奥州伊達郡東根南岳霊山寺山王院縁起には、応永8年(1401)大石村に霊山寺が再興され、その周辺には宗徒12坊が存在したことが記されているという。
簡単にいえば、各種資料を突き合わせてみると、この宮脇遺跡は伊達氏が再興した霊山寺跡である。そして、再興した霊山寺は、宗徒12坊が存在したことなどから、相当に賑わったらしいということだ。
なお、伊達氏の代では、10代氏宗、11代持宗時代あたりだろうということらしい。
霊山寺というのは二つあって、山の頂に建つ霊山寺と里に建つ霊山寺がある。
霊山の山の頂きに建つのは平安時代に創建されたとする「山の霊山寺」だ。この中でも、貞勧元年(859)円仁開基説による「古霊山寺」と、永勧2年(984)にそこから移転した「山の霊山寺」がある。
里の霊山寺は、応永18年(1411)室町時代に伊達持宗によって再興された「里の霊山寺」と、江戸時代初期(1596)に大石倉波の阿弥陀堂に移転した「現在の霊山寺」がある。
「里の○○寺」と言った場合、ここにも二つの概念がある。
その一つは、山岳の仏閣に参拝できない場合の簡便法として、里にその代用の寺を置くことがある。
もう一つが、場所を移して再興する場合だ。
今回の「宮脇遺跡」は、「里の霊山寺」であり、これは応永18年(1411)室町時代に伊達持宗によって「山の霊山寺」を再興したものということになるようだ。
しかも、この寺の瓦の模様が、伊達氏が創建した室町時代の筆頭となる寺院の瓦と同じ事から、伊達氏との深い関わりがあることの確認になったということのようだ。
伊達五山筆頭東昌寺については、先に西山観音寺(桑折)で「西山城の散策③伊達五山の旧地を整理する」として触れた。
伊達五山は、虎関師練の「済北集」によれば、4代伊達政依が、京都の東福寺主席を務め、1286(弘安9)年に会津若松の門田に東昌寺を開いて住んでいた山叟慧仏(仏智)を招いて、始祖伊達朝宗のために満勝寺を開き、次いで父義広のために観音寺、朝宗夫人、結城氏のために光明寺、義広夫人のためと推定される光福寺を創建し、そして、東昌寺を移して自らの寿塔を建ててこれに加え、伊達五山としたといわれている。
中でも東昌寺は、伊達家菩提寺として中心的な存在であったのみならず、陸奥の国全体の安国寺に定められるほどの格式を持っていたという。そして、伊達家の居城が移るたびに、東昌寺もついてまわった。
それは、仙台築城の際にも受け継がれ、仙台の最重要地に建てられ、伊達五山の流れを受けた北山五山の筆頭寺院としていたとのことだ。
「山形・宮城・福島の城郭」によれば、伊達五山の旧地は以下のようである。
自らの菩提寺とした東昌寺は、南北朝時代には足利尊氏によって陸奥国安国寺に指定された名刹で、天然記念物の大カヤ付近の字東にあったといわれている。
この大カヤは、桑折駅から歩いて西山城に向かってくると、上り坂になる手前の左手にある。