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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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芭蕉の道~阿津賀志山防塁あたり

 「義経の腰掛松」とか「国見神社」とか「弁慶の硯石」などは、伝説の域の話だが、国見あたりを散策しているときに、知っておく必要がある。史実としてというよりは、目印として重要になるものだ。
 また、ここは義経の物語の幕開けの場として相応しい雰囲気があり、絵空事ではなく、そういうこともありえるかもしれないと思わせる地である。

 義経の腰掛松は、昭和49年3月1日町の天然記念物に指定されたとのことで、案内板がたっている。
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 その案内板に、由来は義経が東下りの際、路傍に生えていた小松の枝に腰を掛け、休憩をとったことが、松名の起こりといわれていると伝説が紹介されている。そして、初代の松は3本の太幹から、四方に繁茂する枝ぶりから別名笠松ともいわれたとの解説されている。

 更に、案内版ではこの松の江戸時代の名声について紹介している。


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 初代の義経腰掛松は、幕末の文化年間頃、藤田宿の検断岡部忠保と深交のあった幕府住職の中川忠英や大野文泉ら江戸の風流墨客達によって、近江国(滋賀県)の唐崎の松、摂津国の会根崎天神の松とともに、「天下の3名松」として宣伝され名声を博したという。松樹の東側には寛政12年(1800)に江戸の文人、隋古堂素閑によつて書かれた、「義経の腰掛松」の碑が立てられている。
 しかし、文政4年(1823)修験者が、この松に巣を作った蜂退治のために、焚き火をしたところ松に燃え移り、あたら名松を枯らしてしまった。
 村人はこれを惜しみ、同6年信夫郡上名倉村の医師須貝才右衛門から、姿が笠松によく似た赤松を譲り受け、川船に積んで荒川から阿武隈川を下り、徳江河岸より陸揚げされて運ばれ、移し植えられたのが現在の2代目の松である。焼けた初代の松株には、柵を巡らし屋根を葺き、義経神社が祀られている。

 芭蕉がこの辺りを通った時(1689)には、この松は存在していたと思うが、この時も、義経の腰掛松だたかどうかは分からない。奥州街道がこの脇を通っていたかも分からない。


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 近くには、国見神社があるが、これは明治以降の名称で、明治政府の政策が絡む。半沢氏のフィールドワーク地図のメモに、それ以前のことが記されている。
 それによると、以前は、国見山彦代明神で、鹿島・出雲・諏訪明神を祀る。いわゆる国土開発の神である。伝説では、義経が西上の際、当社の神威を仰いだといわれているとのことだ。


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 弁慶の硯石の脇には案内板で由来が次のように紹介されている。
 硯石山の頂上に、弁慶の硯石といわれる石がある。
 信夫二郡村誌には、「石面に縦2尺余、横1尺45寸許りなる、硯の海を穿って常に水を湛へたり、百日の早魃にもいまだ会って、洄るることなしと、相伝いて弁慶が硯という。(中略)源義経当国の軍勢を集め賜う時、(弁慶)法師筆を採りて着到を付けられし所成べし……」と水谷亭等舟漫がこの石の由来を載せている。

 伝説や評判はさておいて、ここからは阿津賀志山麓の様子が見渡せる場所であり、石母田城跡、県境をなす長峯の山々、そして、羽州街道の小坂峠、半田山の方向まで展望ができる。
 また、この山自体、南麓部にかけて横穴古墳群の分布があったり、戊辰戦争の時、仙台藩が構築した砲台場跡もあったという。それが、凝灰岩の採掘によって破壊されたとのことだ。

 
by shingen1948 | 2008-10-27 05:17 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)