地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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阿津賀志山防塁現地説明会⑥の後で

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  説明会後に歩いたあたりの阿津賀志山防塁について、解説する案内板が、農道に建っている。



 国指定史跡
 阿津賀志山防塁
 指定昭和56年3月14日

 文治5年(1189)奥州平泉の藤原泰衡は、源頼朝の率いる鎌倉軍を迎え撃つべく、防御陣地阿津賀志山防塁をこの地に築いた。
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 この地点の阿津賀志山防塁は、厚樫(国見)山中腹の始点部より東北自動車道、JR東北線を挟んで350㍍に位置している。昭和10年ごろ、堀江繁太郎が描いた「二重堀図」の断面図(県立図書館所蔵)によれば、この付近における防塁は、三重の土塁と二条の空堀からなり、堀幅は約24㍍ほどあって、形状は箱薬研堀状をなしていた。中央土塁の頂上が、旧石母田村と旧大木戸村との境界であり、南側の土塁と空堀遺構は失われている。
 この地点には、旧石母田村の、大清水、蛭澤廃寺跡、駒場、牛石、弁天下紐関跡などを経て、国見山の南麓を斜めに上り、防塁にいたる坂道が遺されており、旧東山道との伝えがある。この道は、防塁の直前で枡形に折れ、切り通し状に防塁を横断して、国見の方向に向かっていた。
 この旧道については、確証はないが、大化の改新後の地方行政組織である国郡制度の施行に伴い、都と多賀国府を結ぶ東山道が整備され、国見峠に遺る幅の広い長坂路はこの道であろう。前記の旧東山道の名称を遺す道筋は、これ以前の信夫国、名取国など「国造制」下の通路とも考えられる。
平成18年3月
国見町教育委員会

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 厚樫山に登り、その山頂から阿津賀志山防塁を眺めようとした時に、よく全体を捉えられなかったのは、それまで防塁の位置を実際より平野部にイメージしていたためだった。
 今度、もう一度山頂からこの「阿津賀志山防塁」を眺めてみたい。


 もう一つ、整理しておきたいのは、国衡の本陣が敗れるきっかけを作った奇襲だ。「奥州あつかし山の戦い」では、以下のように描写されている。
 阿津賀志山の本陣の戦いで、突然大木戸の上、国衡の本陣の背後の山々からときの声があがり、矢が雨のごとく飛んできました。陣中は大騒動となり、からめ手が破られてはこれまでと、藤原軍慌てふためいて逃げ回りました。

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 この奇襲は鎌倉方の家来ら7人で行われたという。藤田宿から鳥取の峠を越えて大木戸の背後に回ったという。少人数であったが、朝霧が立ち込めていて、大人数の襲来かと思わせたとのことだ。

 配置図では、楕円を描いていてイメージできるのだが、現場に立つと実際の動きはなかなかイメージできない。
by shingen1948 | 2008-10-24 03:12 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)