阿津賀志山防塁現地説明会⑤~阿津賀志山まで
2008年 10月 23日
阿津賀志山防塁の円を描くように確認されているのは、一度掘った堀跡の上に固められた土が載っていることの確認場所のようだが、説明資料を読み返してみると、これは、古い道路側溝を埋めたらしい部分のようだ。
官道である東山道との関連を考察しようとしているようである。
説明会が終わって、阿津賀志山防塁のここから阿津賀志山まで延びる部分を確かめてみることにした。
阿津賀志山防塁は、阿津賀志山から平野部に下って阿武隈川の岸に至るまで、約4㎞にわたって延々と築き上げられた堀と土塁とからなる防御施設である。その大部分は内と外の二条の堀とそれに平行する3条の土塁からなる。そのうち、この大木戸から阿津賀志山までの防塁は、全体の4分の1ぐらいだろうか。
歩き始めて直ぐに、防塁を横切る水路は西根堰だろうか。
そこを過ぎると、次に国道4号線が横切る。そして、その向こうに、防塁跡であることが分かるように整備された遺跡が現れる。
そこから、阿津賀志山の方向に遺跡は、ずっと続いている。
ここからは、平野部が一望できる。藤原方は、平野部に入ってきての鎌倉方の動向は、すべて見通せたはずだ。決戦の日は、靄がかかっていたとの想定のようではあるが……。
更に進むと、先に奥州街道の国見峠の経が岡を確かめるために通った農道が防塁を横切る。その農道から阿津賀志山まで、防塁は続く。
経が岡は、ここに石那坂の戦いで敗死した泰衡の郎従佐藤基治等一族18名の首級がさらされたということだった。そのことは、「阿津賀志山⑤」で整理したが、ここは国見峠に向かう奥州街道長坂の跡の奥にあった。この街道は東山道の道筋と重なっていてのだろうか。
首級がさらされたのは、阿津賀志山の山頂という言い方をしているが、街道の峠である経が岡ではないかと想像されているようなのだ。
このあたり、不確かな記憶だが、防塁に平行に旧奥州街道が進んでいたという説明を見たような気がする。そうならば、進んできたところから農道を右に折れ、北に曲がって進み道なりに進んで、左にそれて長坂の道に入って阿津賀志山の峠に出るというのが、古道の道筋になるのだろうか。
防塁のほうは、更に進むとJRの線路が防塁を横切る。その向こうにも防塁は続くが、ここからは引き返すことにした。防塁は、阿津賀志山中腹まで続いている。