安達太良山③~元岳温泉
2008年 10月 15日

ここは、その最初の温泉地で、地元では、湯日(元岳)温泉時代(~文政7年(1824))という言い方をしている。

位置的には、くろがね小屋の上部にあたる。
岳温泉は、その後、十文字岳温泉時代(文政8年(1825)~慶応4年(1868))、深堀温泉時代(明治3年(1870)~明治36年(1903))、そして、明治39年(1906)から現在の岳温泉時代になる。
岳温泉のホームぺージの「岳温泉の変遷史」に、その変遷について紹介されている。
その中に、この元岳の災害の様子も紹介されている。
鉄山直下の湧泉地に営まれていた小規模な湯小屋が丹羽二本松藩時代に温泉街として整備され、番所や藩公の御殿も配置された。江戸中期には湯女(ゆな)も許可され一時は100人にも達し、歓楽適温泉場として遠くは水戸などからも来湯客で賑わったという。
文政7年8月15日、連日の雨と台風が直撃した影響で、夜五ツ過ぎ(午後8時過ぎ)に鉄山の一角が崩壊、土石流が一瞬にして温泉街を飲み込んだ。この状況は『岳山崩一見』や『奥州二本松岳山変事筆記』によると医師や人足600名以上が出向き復旧に当たったが「死骸は土中に埋まり、屍湯気にただれうるみ候を引上げ数日間置候処、面影常に替り見分けがたく、ほくろ、あざ等をしるべにようやく見分けられ候」とある。
長い歴史を誇った”湯日(元岳)温泉”は山津波によって一瞬にして崩壊、埋没したのである。
記録に残る人的被害
湯本人54人中無事が36名、負傷者15名、死者18名、行方不明者4名
湯治客142名中無事が97名、負傷者27名、死者47名、行方不明者7名
合計142人中、無事は133名、負傷者42名、死者63名、行方不明者11名

ここに残る土石は、一瞬にして温泉街を襲った痕跡なのだろう。