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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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小田山城

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 小田山の中腹に冠木門・塀・柵が再現されている。
 この冠木門・塀・柵の再現について、「会津人群像№9」に「小田山城冠木門と小田山麓の歴史を訪ねる会」としてその事情を紹介している。
 それによると、山城の柵の図面や絵はないので、「小田山山麓の歴史を訪ねる会」が、史料を集め作図設計したとのことだ。ただ、平成17年に城跡測量調査をした時に、冠木門の再現をした位置から20m上方にその跡が確認されたという。

 葦名氏が会津に入って、400年の長きに渡って若松を中心に支配する。しかし、支配が始まって直ぐに会津に入ったのではない。また、会津に入ってからも、現在の鶴ケ城の位置に黒川城を築くまで変遷があったようだ。小田山城自体も、葦名氏が最後の砦として小田城を構えるまでにもいくつかの変遷があるようだ。

 この小田山城も、黒川城内の動きが手に取るように見え、この城が敵に落ちると黒川城の防御には不利になる。そのため、戦国時代には、籠城戦用の小田山城は破棄され、本郷に向黒山城へ移っていくようだ。

 戊辰戦争では、鶴ケ城はここから砲撃されていて、そのことが証明されたようなところがあるなと感じる。

 冠木門にある案内板では、最後の砦としての小田山城を説明している。
 小田山城
 葦名氏は、三浦半島を本拠とする三浦義明の10男、佐原十郎義連が文治5年(1189)に会津を拝領し、20代葦名義広が、天正17年(1589)磐梯山麓の摺上原で伊達政宗に敗北するまでの400年間領主となっていた守護大名である。葦名氏は鎌倉時代前半、三浦半島に住んでいたが、13世紀後半になると会津に入り、館や城を築くようになる。戦国時代、政治の場と生活の場とする「居城」とは別に、最後の砦として「山城」を築くことが一般的で、葦名氏は、居城とする「黒川城」(現在の若松城)し、1.5㎞離れて山城の「小田山城」を築いていた。
 小田山城は、14世紀に築かれた山城で、16代盛氏が永禄11年(1568)に向羽黒山城を築くまで機能していた。南北約2.5㎞東西約1.5㎞の範囲があり、小田山山頂と青木山と呼ぶ奴田山山頂に大きく分かれる。
 小田山山頂には、丹羽家墓や田中玄宰墓を中心に、北へ向かって3日月状の平場約25段と、高さ1m以内の土塁が築かれ、現在の道路部分は、平場を利用して造られている。戦国時代、平場をまとめて「曲輪」と称し、曲輪には虎口と呼ばれ入口「冠木門」が設けられ、門の両側には、柵や堀が設置されていた。曲輪の内部には、掘立柱建物や櫓が建てられていたと推定され、常時監視役の兵が守備にあたり、緊急の場合は狼煙などで黒川城と連絡をとっていた。
 冠木門・塀・柵参考文献戦国の城「築城記」の世界別称「用害之事」「協賛者御芳名」裏面に掲載

by shingen1948 | 2008-10-11 05:17 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)