地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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小田山からの砲撃

 慶應4年(1868)8月23日に、会津藩は籠城戦に入る。24日には、東部戦線の会津藩士は、ひとまず城内に入った。
 翌25日に、西軍は城東極楽寺の和尚の案内で、小田山に砲塁を築いたという。
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 その小田山は、天守閣から東に全体が見える山である。


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 当然、小田山からみれば、鶴ケ城の天守閣が見える位置ということになる。
 この小田山は、小さい頃に学校が終わると、スキーを担いでやってきて、思い思いに滑るスキー場のイメージだ。ジャンプにしくじって捻挫した苦い思い出もある。
 この山から西軍が砲撃したことは分かっていたが、その位置などは分からなかった。


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 今は案内板が整備されていた。

 その位置に立つと成る程、鶴ケ城が眼下に見える。

 「小田山麓を歩く」によると、薩摩・鍋島・松代・大村・土佐・岡山・加賀の諸藩は、ここから城を眼下に見下ろしながら一斉に砲門を開いたという。中でも、鍋島藩のアームストロング砲は威力を発揮したという。また、威力のない大砲は、薩摩の砲兵隊長大山弥助の砲口の角度指導で、本丸に弾を届かせたとのことだ。

 会津藩も急遽富岡宮付近と三の丸に砲を出して応戦したが、西軍は、舘荒神祠、慶山村の畑に砲門を据えて反撃したという。
 会津藩は、27日には青木・小田から小田山奪還を試みるが、これにも失敗。
 西軍は、9月14日からは、このほか城下16門に砲列を布き、一斉に砲撃を開始したということだ。

 「小田山麓を歩く」の中に、西郷邸の主人である西郷頼母のその後が紹介されていた。
 西郷邸では、頼母を見送った後、一族の者21人が自決したことを整理した。

 頼母は、鶴ケ城開城時、冬坂峠(背炙山)の守備についていたが、容保によって城外に出され、その後函館で榎本武揚と一緒に戦い、明治2年(1869)降伏して館林藩に幽閉されたという。
 明治 8年(1875)には解除され、棚倉の都々古別神社の宮司になる。
 明治13年(1880)には日光東照宮の禰宜となる。
 明治22年(1889)霊山神社宮司となり、傍ら師範学校委託などをしていたが、やがて旧藩邸より100㍍離れた長屋で暮らたという。会津に戻っていたということだ。
 明治36年(1903)に73歳で逝去されたとのこと。

 籠城の中、城外に出たのは、容保が、孝明天皇より賜った御震翰を頼母に託したためとするものと、会津藩士の多くが抗戦を主張したため吉十郎と城を脱出し、容保か家老・梶原の命令で差し向けられた暗殺者の目を潜りぬけとするものがある。

 ちょっと整理がつかないのが、家族が壮絶な最期を遂げた会津に戻っていることと、日光東照宮の禰宜の時は、容保が宮司であるが、その時の思いだ。




鶴ケ城砲撃の案内板説明内容

西軍この地より鶴ケ城を砲撃する
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 慶応4年(1868年)8月23日。会津軍は城門を閉じ籠城に入りました。翌24日東部戦線にあった会津藩兵も漸次退き、ひとまず城内に入りました。翌25日に進攻してきた西軍に、地形上すぐれていることを内通する者がいて、西軍は、小田山上に砲塁を築きました。薩摩・鍋島・松代・大村・土佐・岡山・加賀の諸藩は城を眼下に見下ろしながら、一斉に砲門を開きました。小田山上と城までの直線距離は約1600m。鍋島藩のアームストロング砲は2千数百mの射程距離があり威力を発揮しました。当初本丸まで弾丸が届かぬ大砲がありましたが、砲口を上に向けて発射するようになって、本丸まで無数の弾丸が届くようになりました。焼き玉も使われて、しばしば城内に火災が発生し、城内の驚きは一方ではありませんでした。
 会津軍も急遽砲を豊岡東照権現堂の付近及び三の丸に出して応戦し、一時は小田山上の砲門を沈黙させたといいます。西軍は更に舘の荒神、慶山村の畑地に砲門を据え、小田山上と合わせて3方から天守閣を目標にして盛んに砲撃を開始しました。会津軍も8月27日青木・小田の線より小田山奪還を試みましたが猛反撃を受けて奪還は失敗しました。
 9月14日より3日間、西軍は小田山・舘・慶山の砲門をはじめ、若松城下外郭16門に砲列を布き、一斉に砲撃を開始しました。この総攻撃により、城内は修羅場と化し、将卒婦子女に多数の死傷者を出しました。

 平成11年5月吉日
 市制100周年記念鶴城地区地域イベント事業実行委員会

by shingen1948 | 2008-10-09 19:52 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)