降参兵の心境
2008年 10月 07日
「福島民報」の「戊辰140年の向こうに」に、<飯沼定吉を探して>と題して以下の3話に分けて特集を組んだ中の9月9日の第三話「「生きる」意義伝えたい」の「ミニ知識」に、西郷一家の自刃として、以下のような解説が載っている。
飯盛山で、白虎隊士が自刃した23日、城下では手足まといになることを恐れ、武家の女性ら140人が自ら命を絶った。西郷邸では、頼母の妻千重子ら21人が死亡した。千重子は飯沼貞吉の叔母に当たる。貞吉が前日の22日、出陣の挨拶で訪れた。外祖母なほ子らも23日自刃している。
この西郷頼母邸は、城の北側にあったらしい。
会津武家屋敷の中心は、この西郷頼母邸の復元された屋敷だ。
その中で、上記自刃が行われた場を展示している。
このことが美化されることと関連して、降参兵になった方、その子孫の方の心境が気になる。少なくとも、この自刃された方とかかわる子孫の方は、そのことが美化されることを受け入れている。そしてまた、自分の生があるのは、降参兵となることを選択された方のお陰でもあることを感じている。そして、そのことが負い目にもなっていないのだろうか。
会津の長州への遺恨は逆恨みだとする話の中に、斗南藩を選んだのは、会津藩士自らだとするものがある。そのはなしに納得するものがある。
美化されたものへの負い目だ。見事な自刃が美化されれば、生き延びて降参兵となっていることが相対的に負い目となり、故郷近くに残れなくなる。それは、貞吉の晩年の故郷との微妙な距離感とも相通ずるものがあるのではないかと思う。
間瀬氏のように会津まで戻れた心境の方もいれば、望郷の思いと負い目から微妙な距離として、県内や隣県といった距離感に自らを存在させる方もいるのではないだろうか。もちろん、割り切って新しい生き方を求めた方もいるだろうが。