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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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白虎隊士②

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 自刃にしくじった飯沼氏の会津の墓は、自刃した白虎隊士の墓と自刃した場所の間にあって、観光案内でも、この飯沼氏が、後に白虎隊についての事実を伝えたのだと説明する。



 最近、自刃にしくじった飯沼氏が、敵である長州の世話になったかどうかが、話題になっているとのことだ。そのことを飯沼氏の孫にあたる方が、確かめているらしい。
近所のおばさんの話でさえ気になるのだから、これがご先祖様の話となれば、もつと気になるのだろうか。
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 その概略を整理しておく。

 「福島民報」の「戊辰140年の向こうに」として特集を組む中に、<飯沼定吉を探して>と題して以下の3話に分けて報じている。
 2008年9月7日 「長州に行った白虎隊士」、9月8日 「資料の空白、読み解く」、9月9日 「「生きる」意義伝えたい」

 その記事をもとに貞吉の経歴を整理すると、次のようなことになるようだ。

 慶応4年(1868)旧暦8月23日飯盛山で自刃、
 武具役人の妻印出ハツに発見され、塩川、喜多方と転々としながら傷を癒す。
 同年10月9日猪苗代の謹慎所に出頭し、父や他の藩士と再会する。

 その後が曖昧になっていた。ここが、長州の世話になった部分で、当時の世相価値観から隠したかった部分らしい。資料を整理すると、以下のような足跡をたどるという。

 猪苗代に出頭した後、鶴ケ城内で降伏した藩士とは、区別されたらしい。
 旧幕臣の降参兵と同様に脱走兵扱いだったとみられる。
 父ら藩士に先立ち捕虜として、10月12日東京へ護送された。
 
 各藩の藩士ならば、上役の元で謹慎することになるところだったという。しかし、この時の司令官である長州藩士楢埼頼三は、集団から外れた貞吉を、江戸から長州まで連れ帰ったのではないかと推定しているようだ。
 楢埼頼三は、明治3年に兵部省の命令でフランスに留学するが、貞吉も伴われて上京したのではないかという。その後、貞吉は静岡の塾で学んだあと、国の電信修技校に入る。
 明治5年(1872)に電信技士として、楢崎の屋敷があった美袮に近い赤間関に赴任する。その後、政府が急ぐ電信施設敷設のため、西日本を中心に各地を転々とする。

 この特集を組んだ後、2008/09/21付で「福島民報」が、「白虎隊士の孫、長州へ 言い伝えの屋敷跡を訪問 」と福島のニュースとして報じる。 彼は、「貞吉は心の傷をいやし、次の人生をどう歩むかを考えていたのだろう」と話したとのことで、心の整理がついたのであろうことが推測される。会津では、戊申戦争はまだ身近な話題のようだ。


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 会津平野に猪苗代湖の水を運ぶ戸の口堰。


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 白虎隊士中2番隊の一部が、その戸の口堰のトンネルをくぐって飯盛山にたどり着く。


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 ここから高台に登り、市内を見渡すと、


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 黒煙に包まれる鶴ケ城を見て、落城と思い16人が自刃した。一命を取り止めた飯沼定吉が、後に白虎隊の事実を伝える。







「福島民報」記事内容

 幕末の戊辰戦争で自決した会津の白虎隊のうち唯一生き残り、長州で一時、養育されたという言い伝えがある飯沼貞吉(後の貞雄、1854-1931)の孫、飯沼一元さん(65)=東京都在住=は20日、ゆかりの山口県美祢(みね)市などを初めて訪れ、講演した。
 貞吉は慶応4(1868)年8月、福島県会津若松市の飯盛山で自刃するが、一命を取りとめて捕虜となった。しかし、その後2年ほどの足取りが分かっていない。
 戊辰戦争での会津戦などで戦果を挙げた長州藩士の楢崎頼三(1845-75)の、現在の美祢市東厚保町小杉の屋敷で奉公していた故高見フサさん(高見三郎元文部大臣の祖母)の口伝えによると、小杉に帰ってきた頼三は少年を伴っており、屋敷でしばらく養育した。頼三と貞吉は生前、互いのことを一切語っておらず、史料もないが、フサさんは貞吉を「サダさぁ」と呼んでいたという。
 美祢市の楢崎家屋敷跡を訪れた一元さんは、フサさんの子孫らから歓迎を受け、屋敷跡の説明版などを感慨深い様子で眺めた。一元さんは「今日訪れて貞吉がいたことを確信した。貞吉は心の傷をいやし、次の人生をどう歩むかを考えていたのだろう」と話した。
 市内の美祢図書館で開かれた講演会では、一元さんが調べた貞吉の生い立ちや苦悩などを紹介。「貞吉は『死すべき人生』から生まれ変わり、会津の精神主義に加えて長州の実学・実践主義を身に付けたことで目標を得た」などと述べた。
 一元さんはこの後、萩市を訪れ関係者との交流会に出席した。21日には同市で講演する。
by shingen1948 | 2008-10-06 05:10 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)