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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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白虎隊士

 観光客になって回ってみると、ここに住んでいたときには気にもとめなかったことが見えることがある。それとは逆に、住んでいたからこそ見えることもある。
 自分にとって白虎隊士との距離感が近いということもその中のひとつだ。

 近所に白虎隊の子孫の方が住んでいた。その方は、間瀬源七郎と血縁関係があるとのことで、会津祭や観光の行事によく来賓として招待されていたことを思い出す。
 姉と妹の姉妹でお住まいになっていて、姉は高校の国語の先生をしていて、家事は妹という役割の生活振りだった。
 以前は、御薬苑に住んでいて、そこから引っ越してきたらしかった。
 その頃は近所づきあいもよく、ご近所はみんな茶飲み友達だった。その方も、そんな中のひとりだが、自分も茶のみに連れて行かれ、先祖様から伝わる宝物を見せてもらっていた。
 その後、妹さんはF市の方に、お姉さんは養子縁組された方のもとに行かれたと聞く。

 観光地で白虎隊にかかわるものを見ても、自分は全体を見ていない。その中から間瀬源七郎を追っている。
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 飯盛山の白虎隊の墓は、おおよそ中央近くにいる。


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 鶴ケ城に掲げられる肖像画も彼を追って見る。


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 日新館では、休み時間に腕相撲する人形モデルになっている。左側だ。


 ついでに、インターネットで間瀬源七郎にかかわる事が書いてあるサイトを探す。
 見つけたページの中で、興味があったのは、白虎彷徨というページと、東京工業大学間瀬茂 ウェッブページで、間瀬の氏にかかわる個人的趣味で集められたページ。
 「白虎彷徨」というページでは、間瀬源七郎の概要を次のようにおさえた上で、「間瀬源七郎」を詳細に整理するページに導く。
 郭内二之丁、間瀬新兵衛(家禄三百五十石、家老組組頭、用人、奉行等を歴任)の次男、嘉永五年六月十四日生まれ。母はまつ子(黒河内図書の三女、気品高く容姿端麗だったらしい)
 十歳で日新館に入学、三禮塾二番組に編入。性質は温和、母に似て美少年だったという。

 東京工業大学間瀬茂 ウェッブページでは、「会津白虎隊関連間瀬」として、以下のように紹介されている。
 間瀬岩五郎(朱雀足軽二番隊中隊頭) 慶応4年8月29日、一千の軍団を率いた佐川総督の作戦中死亡
 間瀬源七郎(白虎隊隊士、飯盛山で自刃)
 間瀬新兵衛利貞(間瀬源七郎父)
 間瀬きよ(間瀬源七郎妹、戊申の役時、若松城篭城中に女児を生む)
 間瀬みつ(間瀬源七郎姉、若松城篭城中の記録「戊辰後雑記」著者)
 間瀬まつ、つや、ふゆ、ゆき
 源七郎は嘉永5年6月14日、若松城下郭内本二之丁に三百五十石、間瀬新兵衛利貞の二男四女中の末弟。 色白で容姿端麗、子供の時より小姓役になる。性格は温和で恭謹。10歳で藩黌日新館に入学し、 三礼塾二番組に編入される。16歳で会津最高学府止善堂に入学。享年16歳。法名は勇猛院忠誉義進居士。 飯盛山で自刃した白虎隊は白虎士中二番隊。明治元年(1868)の戊辰戦争時篭城していた姉ミツが丹念 につけた日記(戊辰後雑記)が残っており、篭城中に妹キヨが女児を生んだことや、戦後斗南藩へ移住して再び 会津へ戻るまでのことが書かれていて戦争の史料となっている。

 この中に、「戦後斗南藩へ移住して再び 会津へ戻るまで」ということから、近所のおばさんも同じように過ごし、御薬苑に生活するようになって、それから御近所へ来たのだなと想像できる。
 ただ、この中のどの方と結びつくのかは分からない。

 こういった繋がりの濃い中で、戊辰の会津戦争を歴史的な事実として客体視できないのは自分だけではないと思う。少なくとも、高校の教師をしていた近所のおばさんの教え子も、おばさんの養子に入られた方もそうなのだと勝手に思っている。
by shingen1948 | 2008-10-05 08:11 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(0)