人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

戊辰戦争の非情さの象徴を訪ねる②

 昨年も長命寺と阿弥陀寺の東軍の戦死者の墓地を訪ね「戊辰戦争の非情さの象徴を訪ねる」として整理した。
 今回もやはり戦死者の墓を回ってしまつたが、長命寺の塀は、戊申戦争の銃撃戦の跡を残す遺物であることに気づき、それを付け加えて整理する。

 二つの寺の東軍の戦死者の墓を回って再認識するのは、戊辰戦争後の死者の取り扱いについてだ。戦争自体、悲惨なものであることは変わらないだろう。しかし、長州への怨念へつながるのは、物言わぬ死者の弔い方だ。
 長州を中心とする政府がとった死者の取り扱いを再認識する。
a0087378_673688.jpg
阿弥陀寺の案内板説明の内容を再掲する。


会津藩戦死者の遺骸は、西軍の命で放置されたまま、さわることを許されませんでした。幾度もの懇願で埋葬が許可されたのは、翌2年2月のことでした。埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、阿弥陀寺には1300柱にものぼる遺骸が埋葬されました。



a0087378_684685.jpg
長命寺の案内内容の一部を再掲する。


 城下の会津藩戦死者の遺骸は、新政府から埋葬が許可されず、翌年の雪解けまで放置された。
 これを見かねた、時の長命寺住職幸證師は、年の暮れに付近の遺骸を密かに埋葬した。その総数は145体と言われている。墓碑は明治11年4月になって、旧会津藩士75名の有志によって建立されたが、碑面には「戦死墓」の三文字以外表示することが許されなかった。

 案内板を通して再確認が継続されている間は、会津の「先の戦争」という概念は、戊辰戦争ということであり、怨念の継続を意味している。


a0087378_5504645.jpg
 さて、長命寺の塀だが、会津若松市指定の文化財であることは分かっていたが、戊辰戦争との関わりについては意識していなかった。


a0087378_552492.jpg
 案内板を読むと、ここでの銃撃戦の跡ということでの価値を含んでいるらしい。
 確かめると沢山の砲撃が食い込んでいた。

 案内板では次のように紹介されている。


市指定文化財(史跡)第81号
 平成5年9月16日指定
 史跡 長命寺築地塀
 長命寺は、慶長10年(1605)京都本願寺第12世教如人が蒲生秀行に請い、若松城下日野町(今の上町)に一寺を建立、本願寺輪番(本願寺出先機関)の地とし「本願寺掛所」としたのが始まりとされている。
 そして、浅草本願寺と同じ寺格を賜り、会津一円は勿論、東北各地にも布教した。
 寛文7年(1667)院地狭隘のため今の地を賜って移り、これまでこの寺は御坊と尊称されてきたが、「幸甫」の代より長命寺と改め、輪番制を廃し世襲の寺となった。
 寛文年間(1661-1672)本願寺直轄寺院であったこの寺は、最高の寺格を示す白線の五條の築地塀を許された。
 この築地塀は、平成5年の大修理の際に分かったが、構造的には外観を土塀にして仕上げるいわゆる「練り壁」の工法がとられ、この工法は江戸時代に広く行われていた。
 この築地塀の名を高らしめたのは、戊辰の役における長命寺での攻防戦であり、当時の鉄砲弾がこの築地塀に無数に残っていて、その戦いのすさまじさを物語っていた。
 平成7年12月
 会津若松市教育委員会

 この長命寺付近で大激戦があつたことをこの塀で感じ、「戊辰戦役 会津藩士戦死者之墓」
で、会津藩側に多くの戦死者が出たが、新政府から埋葬が許可されず、翌年の雪解けまで放置されたことを知る。そして、明治11年4月になって、旧会津藩士75名の有志によって建立される時でさえ、碑面には「戦死者」の3文字以外表示することが許されなかったということを心に刻む。

 長州との和解行事が進む中で、これらの歴史的な遺産の案内文は変わらることなく語り継がれる。
Commented by at 2008-10-08 09:48 x
昔、社会科の授業で「村八分」の意味を火事とお葬式以外は付き合ってもらえない関係と聴いてますが、長州軍の執った処置は謂わば「村十分」に近い形だったのですね、、、--;)蟠りが百年以上続く意味が分かったような気がします、、、。
Commented by shingen1948 at 2008-10-09 20:06
 会津藩では、朱子学の影響で遺体でも親に火をかけるのは不幸だという考えから大窪山墓地を造っている土地柄だったようです。その中での遺体の非情な処置ですから、その怒りは、私たちが感じるよりも強いと思われますね。
by shingen1948 | 2008-10-04 06:12 | ◎ 会津への路(戊辰戦争) | Comments(2)