地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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鳴俣堰④

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 鳴俣堰と杉田川の高低差が見えるところがある。地点は、皿久保神社の少し手前だ。
下を流れているのが杉田川だ。
 この坂道を登って、人家の上方に岳街道が走っている。
 その上を 鳴俣堰は走っている。
 単に百日川へ合流させることをめざしているのではなく、玉井の「大地を潤しながら」ということが分かる。


実際に歩いてみると、水争いと無縁なように感じるのだが、「大玉まるごと百選」では、大正13年の「鳴俣騒動」を紹介している。

この年の夏は雨が降らず、この堰にかかわって分水率が問題になったという。そんな中、この頃は3日に1日は本宮に分水するという習慣だったが、水が流れてこなかった。本宮の農家の20歳以上の男子を総動員して取り水口に押し掛けた。手に手に木刀を持ち実力で分水しようとしたのだ。
 これに大山村民は激怒し、本宮の商店と取引をしないという「不売買同盟」を結成した。
 安達郡役所が仲裁に入ったが、双方の主張に隔たりがあって難航したようだ。それでも玉井も立ち会うなどの方策と3回の調停会を経て、仲裁案が提出された。「水利権は双方主張を撤回し従前通りとする」ことと、「本宮町から謝罪使を派遣する」ことで承認され、村民会議開催で決定され、謝罪使を迎える集会が開かれて終結したという。

 これは「大玉村水利事業史」からの引用だが、ここでは、大正11年の恐慌、翌年の自然災害による恐慌の悪化という社会的背景によって、窮乏した村民が、本宮町の大地主の小作になっているということが背景にあると推測していた。
 また、鳴俣堰には造られた当初から、本宮の農家がそれぞれ米一升を出して番人を置いていたことも紹介されていた。
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 これは、鳴俣堰と合流したばかりの地点だ。


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 百日川は、豊かな水量を保ちながら、扇状地を下る。騒動は昔話のようだ。


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 これは、この豊かな水を地蔵免あたりの水田開発に利用するための取り水口である。


 百日川からこのような堰がたくさん延びて、杉田川と安達太良川の中間の扇状地を豊かに潤しながら本宮をめざしていく。

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by shingen1948 | 2008-10-02 05:10 | ◎ 水 | Comments(0)