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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本松畠山氏の家臣とかかわる館を訪ねる②

 「福島の城」(鈴木啓著)を見ていて、二本松城の本宮舘は、遊佐丹波守・氏家新兵衛の出府中の館であるとの記載を見つけた。
 二本松城本宮館は、勝手に本宮殿である鹿子田氏だと思っていたが、そうではないようだ。本宮城の菅森館、愛宕館などの出府とかかわるらしい。

 鹿子田氏の出府の館は、猪子館とのことだ。東方約450mの尾根の突端部を堀切で切断した出っ張りの館との事から、松森舘の先と見る。

 天正13年(1585)から天正14年(1586)の守城戦で、天正14年3月に寝返ったという箕輪館は、本宮舘の50m西とのことだ。先の散策で自信がなかったが、本宮舘から道路を挟んで見えた高台に違いない。
 ここに、伊達勢を引き入れて立て籠り、本宮舘の二人は共に寝返って新城館に籠ったという。

 この時の新城館の館主が新城弾正で畠山義継夫人の弟とのこと。その弾正の子が松森舘の館主という。この新城館は、先に二本松城を散策した時に、畠山氏と伊達氏の攻防の時代に、本城的機能を果たしていた証拠が見つかった館と知った所だ。
 この時の新城氏は6代目の信常(弾正忠)で、義継の従兄弟にあたるともいう。主国王丸と重臣が籠城したときに中心的人物として活躍したようだ。
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 大山の椚山館は、この新城氏の居城らしい。


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 ここは、現在民家が建つので、堀跡らしい風情をみせる部分を掲げる。


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 国詮4男式部少輔氏泰が、大山の椚山に新城を築いて新城殿と呼ばれたのが始まりらしい。二本松畠山氏の家臣というよりは、親族というべきなのだろうか。


 相生集には、以下のように紹介されている。


 新城心安居る心安は信常老後の称也按るに畠山満泰の弟式部少輔氏泰此館を築きて住せし故世に是を新城殿と号す夫より六郎泰時式部少輔氏重弾正少粥盛継五郎直継弾正少粥信常まて6代ここに住せり道斉記に新城弾正同大和住すとあり大和は弾正の子にて父と同しくここに居りし也


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 会津に出かけた折、新城氏とかかわる造り酒屋を訪ねてみた。
初めにこの造り酒屋を訪れたのは、ここを博物館に仕立ての頃だ。たまたま居合わせた社長さんが、古い写真機の博物館を創りたいとか、イベントホールにしたいとか、熱く夢を語っていたころだ。
 
by shingen1948 | 2008-09-29 05:25 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)