地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本松畠山氏の家臣とかかわる館を訪ねる

 本宮城の菅森館、愛宕館、田子屋館は、遊佐氏とのかかわりらしい。

  大まかに遊佐氏を確認すると、遊佐氏は、元々河内の畠山氏に仕えていたとのこと。それが、遠江守重定の代に、二本松畠山氏に仕えたということのようだ。その子重勝が、正保年間(1644~1647)に家臣として確認されるという。
 伊達家の天文の乱には、すでに伊達家の重臣として遊佐美作守がいるが、その流れを組むと思われている。
 それは、この重勝氏が、兄の丹波守某や箕輪玄蕃らと共に伊達家に寝返り、知行を与えられたという背景らしいのだ。

 安達地区では、伊達氏は、非情な皆殺しの戦略がイメージされる。戦う前に、相手方の重臣層の切り崩しの戦略が効を奏しているように感じるが、このことが語られることは少ない。それは、自分の地域のリーダーが、伊達氏と繋がる場合、無意識に語ることを避けているように感じるのだが、……。
 この地域の歴史家にとっては、伊達氏は侵略者として否定されるべき存在であり、それに与することは裏切り者のイメージが付きまとうのだろうか。

 箕輪館は、二本松畠山氏の家臣で、丹波守某、遊佐美作守とともに、伊達家に寝返った箕輪氏とかかわるのだろうか。
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 この箕輪館は、箕輪3丁目にあって、標高300mという情報がある。これを頼りにたどり着くのは、この高台だが、今一つ確信はもてない。
ここには帯郭や空堀があるという。
 相生集の古蹟類の「箕輪」の項に、箕輪館は以下のように説明されている。
 遊覧志に高国の臣箕輪貞氏住すと古舘弁にハ義継の臣箕輪玄蕃住すとあり玄蕃ハ貞氏の子孫なるへし

 高国の代からずっと畠山氏の家臣であった箕輪氏が住んでいて、二本松畠山氏が滅亡する頃は、玄蕃の代になっていたということのようだ。その二本松畠山氏の滅亡に際し、箕輪氏は、伊達氏の家臣となっていくということらしい。


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 なお、箕輪3丁目に荒屋敷館があって、標高250mとのことで、土塁や井戸が残るという。これは、この山で確かなようだが、歴史的な背景は分からない。


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  この山の東側には集落があって、この山の南側に三波神社がある。その館とかかわる歴史があるのかどうかは、分からないが、少なくともこの集落とかかわる神社には違いない。


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 とりあえず、そこに登ってみる。


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西の裾には石碑群がある。


 散歩人にとって、戦国時代の生き残りを掛けたぎりぎりの選択を否定するイメージは、持ち合わせていない。
by shingen1948 | 2008-09-28 05:47 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)