地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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田子屋館②

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  田子屋館案内板では、築城者不明とあるだけで、歴史的な背景の説明がない。

 しかし、二本松市のメールマガジンによると、少なくとも、畠山義継の家臣である遊佐佐藤右衛門父子が居城していたということだ。もともと二本松の支城であったようだ。
 それが「粟の巣の変」の後、二本松城を守るためだと思うのだが、ここが空になっていたという。

 そこを、伊達成実が占領してしまったということのようだ。鹿子田氏が、奪回を試みるが、しくじってしまっているとのことだ。

 成実の後は、その家臣である遊佐藤右衛門の子・新右衛門の居城であったとのことだ。この城を八丁目城の支城としたのだろうか。

 遊佐だが、同じ名前の上に、最初は畠山義継の家臣との冠がついていて、後半は、成実の家臣とさらりと記載されている。

 安達郡誌では、畠山義継の臣遊佐佐藤右衛門父子の居城で、天正13年5月5日伊達政宗に降りて、伊達安房守成実此処に居住すると記載されているとのことだが、まだ確かめていない。ここでは、今でも端午の節句に幟を立てないのは降伏の日に当たるからだと説明されているという。
 伊達政宗とかかわる時は、視点は、常に畠山義継側からの描写するのがこの地区の特徴だ。
 ここに、安達地区の歴史観を感じる。今まで確認した経緯の中で感じるのは、積極的に伊達政宗側についたものは、裏切り者として、保身のために伊達政宗側についたものは、歴史的事実とともに、事実として認知されているという感じがする。

 確認していないが、相生集では、「遊佐丹波守は畠山の臣だが、梅王丸にそむいて箕輪館に残らないで、誅せられし後は伊達藤五郎が入れ替わって住んでいた」としているとの記載があるという。
 遊佐丹波守といえば、本宮の菅森城・愛宕城の記載と同じで、その関係性について興味があるところだが、まだ分からない。

 マガジンに戻ると、『積達館基考』には、この後のこの城の居城者にかかわる記載がある。
 二本松が会津領蒲生氏の支配下の時には、野田正勝の居館であったとのことだ。







 二本松市メールマガジンの説明内容

 ~安達地区の城館~ ~田子屋館~
 (二本松市メールマガジン 第12号「シリーズ 第11回にほんまつの城あと 」)

 安達地区の北部、県道松川・渋川線と東北本線に囲まれた低丘陵上にあるのが田子屋館です。すぐ南に近接して、桑原館も位置しています。
 田子屋館は渋川館ともいい標高234メートル、北東側は急斜面で山林、南側は緩い斜面で段々畑になっています。
 西側は山林で中腹に高さ5~7メートル、幅2メートルの土塁を築き、山すそには深さ2~4メートルの空堀が200メートル余りも残っています。
 標高217メートルの桑原館は規模は小さいが、東側の山林には高さ1~2メートルの土塁が100メートル余り残されています。頂上部分は破壊されていますが、江戸時代の石材掘りのためといわれています。
 いずれも平城であり、背合わせした位置関係をみると、防備の都合上、一体化した城館として存在し利用されたものと考えられます。

 歴史的に見ますと、二本松城主畠山義継の家臣であった遊佐丹波守・下総守の居城でした。それが、天正13年(1585)伊達政宗の攻撃に備えて、本宮・渋川・玉井の兵を二本松城に集中した時、空同然になった田子屋館は政宗家臣の伊達成実によって占領されました。
 記録によると、同年12月に家臣が鉄砲の火薬箱に火を落としたために全焼し、成実も火傷したとされています。
 また、翌年1月畠山家臣の鹿子田左衛門が奪回すべく攻めたものの、追い返されたことも記されています。
 成実の後は、その家臣である遊佐藤右衛門の子・新右衛門の居城であったといわれています。さらに、二本松が会津領蒲生氏の支配下の時には、野田正勝の居館であったことが『積達館基考』に記されています。
by shingen1948 | 2008-09-27 04:45 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)