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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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二本松畠山氏とかかわって(安達太良山麓辺りの散策)

 地域の歴史的なことを知るのにオーソドックスな方法は、古文書等にあたるということだろうか。しかし、これは地元とのかかわりが深かったり、地元に根付いたりしているものでなければ、容易ではない。
 散策するだけの立場の者にとっては、地域を知るのに繋ぐという方法がいいと思っている。

 二本松城を散策していて感じたのだが、安達太良山麓辺りは、この城とのかかわりを整理することで、今まで散策してきたこととつながるようだ。
 中世の山城ということでは、二本松畠山氏とのかかわりだろうか。

 権威的に見れば、二本松畠山氏が、居城を殿岡から白旗山に移して二本松城と号することは、一地方官としての立場になってしまうことを意味するようだ。しかし、この地区の影響力という観点からは、このころが全盛期ということになるようだ。

 この地区を二本松畠山氏が本格的に支配するのは、国詮の代からだ。
 国詮は四人の息子たちを領内の各地に分立させ、領国支配を確立していくようだ。
 先に散策し、「本宮城①~鹿子田館」で整理した本宮氏もその中の一人だ。
 本宮氏の満詮は、国詮の二男で、鹿子田家を継いだともいう。
 大玉村とかかわるのは、四男の式部少輔氏泰で、大山の椚山に新城を築いて新城殿と呼ばれたらしい。この新城氏は、先に二本松城を散策した時に、畠山氏と伊達氏の攻防の時代に、本城的機能を果たしていた証拠が見つかった新城舘とかかわる。
 家督を継いだのは三男の満泰で、正嫡ということと武勇に優れていたということのようだ。この時代に畠山氏の所領拡大はいっそう進んでいったという。この満泰が、応永21年(1414)に居城を殿岡から白旗山に移し二本松城と号するのだ。
 長男の上野介満国は、川崎村の城を預けられ、伊達氏に対する備えをになったという。

 家督を継いだ満泰には三人の息子がいたが、嫡子の満盛に家督を継がせる。ところが、この満盛は早死し、その子はまだ幼少だったので、2男の持重が家督を継ぐことになる。
 しかし、この満盛の子である徳万丸は成長して政泰を名乗り、家督をめぐって持重と争うことになるのだ。この戦いに敗れた政泰が先に散策した高倉城へ移るのだ。その子孫は二本松畠山氏と敵対関係を続けていくことになる。その高倉城の散策は「高倉城へ」として書き出して、④まで分けて整理した。
 三男の家継は高玉の地を与えられて一家を立てた。高玉の地は葦名氏との境に位置しており、満泰の時代に二本松畠山氏領となったものらしいとのことだ。ここの散策は途中だが、一応「高玉城へ」と整理しておいた。

 この他に、箕輪氏・遊佐氏・氏江氏・川崎氏が二本松支族として整理されるという。 
by shingen1948 | 2008-09-23 05:35 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)