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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「陣の山館跡」を訪ねたこと

 今年の夏は、伊達政宗の「会津への路」をたどったり、恵日寺を中心に、仏教文化の「会津から」の発進を中心に散策したりした。
 今年は慧日寺金堂が再建されたことでスポットライトが当たっていた。そのため、伊達政宗については、摺上原合戦とのかかわりで、磐梯町を中心に散策したが、影になってしまっている。 その中でも、地味だったのが、「陣の山館跡」に立ち寄ったことと、「大寺古砦跡」に立ち寄ったことだ。
 しかし、このことをこの夏に訪ねたことの一つとして整理しておきたい。

 慧日寺を散策しているときに、家人から連絡で、s工場でガスが発生しているということが報じられたことを知った。この館跡に行くには、そのs工場への方向に進むことになるが、道を挟んで反対側進むはずということで、そのまま訪ねることにした。

 道から入ると、似たような景色で、何度か迷いながらぐるぐる回ったが、どうにかたどりついた。
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 案内板には、この館について二つの居城についての説明がある。
 その一つは、この館は平安時代城四郎平長茂(資職)が居城したというものだ。築いたのは、城氏と縁戚関係を結んでいた慧日寺の衆徒頭乗丹坊といわれているとのことだ。
 この慧日寺の衆徒頭乗丹坊については、先に「慧日寺④の勢力~乗丹坊墓塔」として整理しておいた。

 福島市近郊で小さな不明な館跡は、おおよそ佐藤氏とのかかわりのあるということになっているが、ここでは、慧日寺とかかわるのが常識になっているようだ。

 今回訪ねた興味は、二つ目の説明の方だ。
 通説になっている天正17年(1589)摺上原合戦で蘆名氏を攻めた伊達政宗が築き、1週間後に黒川城に侵攻したために未完成になったということだ。

 伊達政宗は、足場を確実に固めながら黒川城への道を歩んだのではない。この城でもう少し守りを固めようとしたのだが、状況が動いて、予定より早く会津に入ったということのようなのだ。
そのことは、先に、「「磨上原の合戦」の政宗」として整理した。
 磨上原の合戦で優位に立った政宗は、この「陣の館山」に陣を張るのだが、この時には、葦名勢は柏木城を撤退する。政宗はここに城を築きそうな気配を見せながら、一週間後には、黒川に入ってしまう。素早い状況判断と決断、そして素早い動きが展開されたのだ。
黒川に入っても、彼は直ぐに黒川城には入らず、興徳寺を仮の居館とする。
 その興徳寺は、去年訪ねて「蒲生氏郷の墓を訪ねる」としてまとめた。


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 この舘跡の現状だが、裏側にも回ってみたが、畑地になっていて、雑草ではっきりと確認することはできなかった。


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 案内板には、頂上部に堀跡があるとのことで、全体図にも示されているのだが、それも確認できなかった。


 磐梯町指定史跡第15号平成4年3月16日指定
 史跡陣の山館跡
 所在地 耶麻郡磐梯町大字大谷字地理山3359-20番地37筆
 陣の山は標高315㍍、縄文時代の遺跡としても知られ、平安時代には、城四郎平長茂の居城ともなったという。
 城四郎は、寿永の頃(1183~1285)木曽義仲追討のとき、恵日寺僧兵を率いて城四郎を授けた恵日寺住僧乗丹坊と縁があった。
 また一説には、この乗丹坊がこの館を築いたとも伝えられ、恵日寺との関係が深い。
 しかし、耶麻郡誌には、天正17年(1589)6月、会津の葦名氏を攻めた伊達政宗が、東西20間(約36㍍)、南北25間(45㍍)の本丸と二の丸、三の丸を持つ館を築いたともいう。
 戦後は農地となり、わずかに頂上を囲むように「堀跡」が残っている。

 平成4年3月31日
 磐梯町教育委員会

by shingen1948 | 2008-09-15 06:17 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)