庚申壇古墳説明会⑤~後円部(墳頂)②
2008年 09月 11日
丸石があちこちに転がっているのは事実だ。ということは、これの用途が葺き石ではないと考えているということだ。
冷静に考えてみると、棺を置く石室にあたる部分が、イメージと違っていたわけである。ここに、頭大の丸石を粘土で固めて土手状になっている。
そして、今回の調査状況から、棺を覆っていたいた土手状の丸石が相当量はぎとられているはずである。この崩壊して削りとられて崩落したものが、従来葺き石とされたものではないかと想像しているらしいような気がする。
そういえば、ある質問に、転がり落ちている石の成分分析をしているということの答えがあった。
なぜ石の成分分析をしたのだろうか。
この埋葬施設の石と同じ質の石としたいのではないかと勝手に思う。
ちなみに、その結果は、この石の質は花崗岩質ではなく、安山岩質ということのようだ。ということは、阿武隈川から拾ってきたということではない。産地は安達太良山沿いの川という可能性が高くなる。
大玉村史には、阿武隈川の石を使って石室を作ると想像していたが、そのこととは矛盾が出てくることになる。それで慎重な物言いになっているのだろうと勝手に想像する。
まとめの部分では、葺き石については以下のように述べている。
墳丘には、調査時に後円部墳丘中間テラス直上の最下部に葺石が確認されたのみで、墳丘下段には葺石が葺かれていなかつたと考えられます。前方部においても同様に考えられます。今回の調査でも葺石は確認されず。同じ見解となります。
もうひとつの話があって、探査では、この北側にもう一本粘土の土手状のものが走っている可能性があるということだった。これは、粘土だけの層とのことだ。だとするならば、二つの棺が置かれたことになる。それは、一体何を意味するのかは分からないが、これも興味深い。