地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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庚申壇古墳説明会④~後円部(墳頂)


墳頂部は、もちろんメインは埋葬施設と棺形体ということになる。


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粘土に頭大の円形の石を埋め込んだ土手が二列並び、その間に小石が引きつめられているようだ。この小石が引きつめられた所が棺の下に引かれた床だという。

 自分がイメージする埋葬施設は、いわゆる石室だ。想像していた埋葬施設との違いに戸惑っているが、木棺の場合はこんな感じなのかなと勝手に納得する。
この木棺の形状については、現物は消失しているのだから、床の形から想像するらしい。

床の横断面が緩やかな弧を描くことや東側の粘土の土手が内側に向かって狭まることなどから、木を刳り抜いた舟形の木棺と推定しているようだ。
大きさは、幅が約60㎝、長さが5mと考えられるようだ。



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木棺の置かれ方については、広さが広いほうが頭部になるのが一般的ということだ。この古墳の場合、西側に比べ東側が広いということなので、東側から見てみると確かに広い。こちら側に埋葬者の頭部があったと想定するようだ。

 調査の際、剥いだ土は30㎝程度でしかなく、掘ると直ぐにこの施設が出てきたとのことだ。土手の部分は、すでに表面に出ていたとのことだ。

 誰しもが、棺は、粘土と頭大石で構成された土手状に形成されたもので、覆われていたはずと思う。それが、何らかの事情で、剥ぎ取られてしまったのだろうということになる。
 そう考えると、この後円部(墳頂)は現状では高さ5mというが、それより高いものであったと見るのが常識であろうか。

 この上部が削り取られているらしいことについて、見学者からは、昔から土手状のものは表面にあったといい。自分が小さいころからこの状態になっていたという話が出ていた。東北線開通で削られたのではとか、ここを早く調査してほしかったなど、散歩人よりやや思い入れの深い人々がいろいろと話していた。

 自分としては勝手に館跡の物見だったのではと想像しているのだが、自然崩落の可能性もあるよなと、小心者は納得して、今回も質問はしなかった。

 なお、今回の調査では、埋葬施設を作るための掘り込みが確認できなかったのは、古墳を築く時にこの埋葬施設も一緒に作っていったと想定しているようだ。それは、後円部(墳頂)直径が7.5mという狭い中に、5mの比較的長い棺の設置をも考慮しているとのことだそうだ。


 鉄製品6点との表示がありながら、自分には、どれがそれなのかが分からなかった。しかし、小心者で質問はできなかつたので、みんなが引けるのを待った。
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 誰もいないのを確かめてから、勇気を持って聞いてみた。そしたら、小さな土のような塊にポツンと何かがあるという感じのものをいっているとのことだ。説明に移動するための板の上に載せてもらい、その部分を写真に撮らせてもらった。右側の縦長のものとのこと。


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 この写真では、台形状の小さい塊らしい。

 木棺ということで、砂利の上のわずかな量しか存在しない土の調査が大切になってくるのだろうなと勝手に思ってはいたが、ますます木簡の中に痕跡を探ることの地味さと根気強さと用心深さが要求されるであろうことを実感した。

  傾城壇古墳の後円部(墳頂)に溝がそのまま放置されていることについて、ある本で、これはまずいと唱えていたのは、ここが一番大切なところなのにという意味合いがこもっていることを実感する。
by shingen1948 | 2008-09-10 04:21 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)