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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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庚申壇古墳説明会②~前方部隅角

 この古墳は、前方後円墳の中で前方部が短い帆立貝型古墳であることを想定しているようだが、今回は、3か所の発掘調査地点を中心に説明されるようだ。
 最初に説明される地点は、その前方部の端を確定することを目的にしているらしい。

 元々のこの山の土は、黄褐色の粘土質で、その上に時代の新しいやや黒っぽい土が被さっている。もう一つ、墳丘から流れおちた流土の層もあったらしい。
 ここの部分の前方部の作り方は、その地山を削って成型したと推定できるようだ。
a0087378_3201195.jpg

 その地山の土墳の層をたどって、傾斜が立ち上がっている所が、前方部の始まりの位置ということになることを想定しているらしい。その位置が、右手前枡の「墳端」と表記されているところだ。

 その上の枡の出っ張りのある部分と「墳端」とある部分を結んだ線が、前方部の端の線という想定のようだ。
 左手奥の枡は、墳丘になっている。その手前の枡の出っ張りが始まる位置が、東端のラインということらしい。この二つの線を結んだ所が、帆立貝部の北西の端っこということになるようだ。
 その推定の方法に感心する。

 なお、左手奥の枡と右奥の枡から遺物が出土しているが、その位置にその遺物が据えられたということではないらしい。
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  ここから、後円墳の部分を眺めてみると、自分が想像していたよりもかなり短かい。


a0087378_3253532.jpg

 資料として渡された地図の上では、前方部隅角と表記のある等高線の込んだ位置のようだ。

 この幅を推定するには、東くびれ部とある所から今回の発掘調査で特定された部分を結べば、想像できる。等高線がなだらかになっているのは、崩れた跡だろうか。


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 今回は、そのくびれ部の部分の説明はないが、写真が提示された。渡された資料によれば、 こちらの成形は、地山の上に土を盛って構築されていたようだ。どのよう方法でそう推定するのか興味があったが、場違い、時期違いのような気がして聞けなかった。

 こちら側の前方部が、その高さを失っているのは、盛って構築された土が流失したのだろうと勝手に想像する。恐らく現況の地形が、もともとの山の形なのだろう。
 その現況で形が残されている部分を調査し、その形状を推定すればより正確になるということでの今回の調査であろうか。

 今回の資料のまとめ部によると、墳長約35m、後円部が直径32mとして、前方部の長さを約6mとしている。幅は、約16mとしている。
 この幅の推定は、多分、東くびれ部との兼ね合いから算出したのだろうと思う。

 案内板では、後円部径約30m、前方部削平残部約18m、高さ約5m、前方部は削平されて一部のみが現存しているが、築造されたときは、全長50m以上の規模を有していたと考えられるとしている。
 それから考えると、今回の調査結果はかなり短く、特に前方部は約半分である。

 ここは、「大玉村史」の高橋氏によれば、二つの崩壊の機会があったようだ。
 その一つは、明治20年東北本線開通であって、この台地は東南に伸びて、約200mあったのに、東北本線で中断されてしまったという。
 もう一つは、ここは、約400年前の中世期、長尾氏の館跡であったという。この長尾氏は、長尾の地名を名郷に直したと言い伝えられるということだ。館を構築したりするという直接的ことだけでなく、馬が通る道を作り、古墳の高台を物見に活用したことは十分に考えられるということだ。

 素人的には、これらを考慮すれば、削り出しの部分は、馬による通行のためであり、実はもっと大きかったなどというハプニングが起きてほしいと思うが……。
by shingen1948 | 2008-09-08 04:40 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)