人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

「桑折西山城現地説明会」にて②~出土品

  戦国時代に使われていたものの他に、室町時代に使われていたものが出土したことに意義をみいだしているようだ。
 このことは、いわゆる独眼竜伊達政宗の先の9代の政宗の赤舘がここにあったことの推定の論拠の一つになるからだ。

 漆で割れたところを漆で固められた跡もあるとか、品質らは地元産であろうとか、この土は白石か梁川でないかといった製造に関わる談義があったり、厚さから甕の全体像を推定したりする談義等々が飛び交っていた。
 結びつけたい結論が見えているだけに、赤舘なら焼け落ちた残骸の痕跡も必要ではなどといった専門的なつぶやきも聞く。どれもこれも成程と感心しながら聞いていた。
a0087378_3385484.jpg

 この話は、戦国時代の桑折西山城以前の沿革にかかわることで、先に「桑折西山城④の変遷」として整理しておいたところだ。
 
 この城の沿革は、高館に初代朝宗の創建、9代の政宗の創建という話があり、その前にもともとは佐藤氏のかかわる館だったのではないかという話もある。
伝承では、1189年(文治5年)の奥州合戦の戦功によって、この地を与えられた常陸入道念西(伊達氏の初代)が築いたともいう。また、応永年間(1400年頃)に伊達氏9代政宗が鎌倉公方に背いて立て籠もった赤舘も、この西山城の高館とも言われていて、その説は有力視されているのだ。

 「山形宮城福島の城郭」には、赤館と関わる戦いも紹介されている。ここが、9代の政宗の赤舘であったと考えて読み直す。
 応永7年(1400)に、先の政宗が、稲村公方足利満貞の下知に従わなかったので、関東官領足利満兼が、赤館と長倉館を討たせたが追い返された。
 応永9年には、勅使河原兼貞が28万騎で赤舘・長倉舘を攻めたが、追い返され、兼貞は生け捕りにされたと「余目氏旧記」にあるという。
 同年、上杉憲が、近国の軍勢を動員して赤館に攻撃を加えて落城させ、政宗は会津に走ったという。
 中央との戦いでも、かなり持ちこたえてなかなか落城しなかったらしいことが分かる。

 高館にそういった変遷があって、その後伊達家14代伊達稙宗の時代の改修で、西館、中館を整備したのではないかと思われている。
 その伊達家14代伊達稙宗の時代の改修で、西館、中館を整備したのではないかと思われている時代のものとして、一般的に出土するのは、瀬戸産の皿・かわらけ・瀬戸産祖母懐茶葉壺・擂鉢(すりばち)などのようだ。


a0087378_34493.jpg

 瀬戸産と銘打っているのは、上薬がかかっているもので、当時は、上流階級の方が使用したものと思われる。瀬戸産祖母懐茶葉壺については、より詳しい専門家の意見らしい。
 かわらけと擂鉢(すりばち)は、素焼の土器だ。擂鉢は、ちょこっと出っ張りがついているだけで、素人目にはよく分からなかった。

 これらの出土品は、今回の門跡のあたりに無造作にあったものらしい。この本丸跡は桃畑になっていた所なので、ここから出た石などを一か所に固めて置いたものの中からの発掘とみているようだ。
 穴の中なら、当時の捨て場の想像もあるらしいつぶやきも聞こえてくる。
 
 これだけの出土品で、想像を膨らませていく会話は聞いていて楽しい。 
by shingen1948 | 2008-09-01 04:29 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)