安達地方の会津仏教文化~相応寺と関わって
2008年 08月 30日
先に円東寺を訪ねた。それを奥州街道二本柳宿の寺としてまとめておいた。
この寺も、相応寺と同じように徳一大師ゆかりの寺とのことだった。 会津仏教文化が、安達地方に波及したもう一つの寺として、整理しなおしてみる。
案内板では、大同2年(807年)祖仏徳一大師によって安達太良山の猿鼻に建立された。両部秘密道場であって、大日如来を本尊とし慶長三年(1597)二本柳宿の成立により現在の位置に移り、真言宗豊山派の法流を伝法し今日にいたっているとしていた。
今は二本松市に合併しているが、旧安達町観光協会のホームベージの情報が残っていて、 W e l c o m e t o C h i e k o ' s H o m e C o u n t r yがあって、以下のように紹介していた。
『相生集』には、
「安達太良山光明院という。大同2年(807)徳一の作(一に弘法大師)、あだたらの麓猿鼻に建立す。のちにここにうつる。本尊大日如来。玉井相応寺の末寺。
箕輪貞義あるころ山に薬師勤請(他の地の神仏を移し迎うること)のとき、相応寺を学頭とし、当山を別当とし、京の東寺西寺をかたどり南院左右に相並べり、されば当山ここにうつるといへども、相応寺と本来の爭出来たるに上裁ありて相応寺と本寺と定められしとぞ。時代不明とある。」
手元に『相生集』があって確認しているが、今のところ見つからないが、 注目したいのは、玉井相応寺の末寺とあることだ。
登山を楽しむ方の情報をつないでいくと、この寺の草創寺である猿鼻という所の様子がぼんやりと浮かぶ。漠然とした印象としてだが、「古円東寺」は、安達太良山の塩沢登山口から、勢至平ルートに合流する手前の台地にあったように思えてくる。そして、この寺に二つの院があって、その片方と相応寺とがこの寺の別当寺争いをしたように感じさせる。その結果、敗れて相応寺末になったような印象だ。
いずれにしても、円東寺と相応寺が、安達太良山麓に会津仏教文化の華を開かせたが、相応寺は勢力があって、円東寺を別当寺として持つようになったということのようだ。