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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「遠藤ケ滝」と文覚

 相応寺は、玉井亀山にあった時から修験道当山派の拠点として歴史を刻んでいるとのことだが、それは、前が岳の別当寺とあったこととかかわっていると思われる。
 女人堂碑には、正福寺の名が刻まれているのだが、この寺は、玉井亀山の近くである。
 これらのことから、玉井亀山にある寺が山岳宗教と結びつき、この地区の寺が中心になってその修験場として遠藤ケ滝を中心に奥の院として守ってきたものと想像する。
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 その遠藤ケ滝は、先に訪ねている。
 最近、この地にかかわって説明する人は、相手が「平家物語」を知っているということを前提にしていることに気がついた。しかし、あいにく、当方にはその素養がないので、イメージが弱いらしいと思われるのだ。
 この地域には琵琶の語りが入っていて、その素養は常識である可能性が高かったと思う。
 知っている人たちは、遠藤ケ滝と文覚の名を聞けば、その荒行が半端ではないということをイメージしているらしい。

 平家物語巻第五の文覚荒行の部分を要約すると、以下のような修行になるらしいことを整理しておく。
 こういった修行を全国各地で行うのだが、この遠藤ケ滝もその修行場のひとつだったということになるようだ。

 雪が積もって氷が張り、峰には嵐が吹き荒れ、流れ落ちる滝の水は垂れ下がった氷柱になり、辺り一面が真っ白で梢がどこかも判別できないほど。
 そんな中、文覚は滝つぼに下り、首まで水に浸かる。四、五日目になると我慢できずに文覚は浮き上がる。押し流されて、険しい岩の間を浮き沈みしながら五、六町流される。
  それを童子が引き上げ、人々はこれを不思議なしるしだと考えて、火を焚いて文覚を暖めると、息を吹き返す。
 それを、文覚は「たったの五日目なのに、一体誰がここへ上げたのか」と言って怒って、再び滝壺に戻るのだ。
 その二日目に、八人の童子が文覚を引き上げようとするが、文覚は上がらない。三日目に、文覚はついにはかなくなる。そんな中、夢を見る。
 童子が、滝の上から下りてきて、頭のてっぺんから手足の先まで、撫でられているという気持ちで生き返る。この憐れみを施すのは、不動明王だと聞き、自分の修行を不動明王までもご存知である事と感動した。手を合わせて、これを拝がみ、また滝つぼに戻り、立って滝に打たれた。

 出家の動機は、案内で紹介されているが、その後、伊豆に流されるが、その時に頼朝を平家打倒に立ち上がらせたという話につながるようだ。
 案内者は、「平家物語」「源平盛衰記」などによって、この方の波瀾万丈の人生の一部を紹介したらしい。

 なお、この方の波瀾万丈の人生は続き、頼朝が亡くなると朝廷の反幕府主導者の源通親によって佐渡に流され、許されて京都へ戻ると今度は後鳥羽上皇によって対馬に流される途中で亡くなるという。
by shingen1948 | 2008-08-28 05:03 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)