人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

元相応寺を訪ねようとして

相応寺が、現在地であるに玉井南町移ってきたとされるのは、永禄3(1560)年。その前は、宝暦4年(1452)から玉井亀山にあったという。修験道当山派の拠点として、ここに100年ほどの歴史を刻んだとのことだ。
a0087378_437919.jpg
 住宅地図を確認すると、玉井亀山の中に、元相応寺が表記されている。その地図を頼りに行ってみると、行き止まりのところに、ビニールハウスがあって、周りは田圃になっている。もう一度戻って周りを一周して状況を確認して戻ってみると、声をかけられる。
 ここで一枚という訳にはいきそうもない状況なので、この位置が見える道路から写真におさめておく。


 a0087378_4391510.jpg
  事情を話した時、寺はここでないといわれ、とりあえずそちらに向かったので、その記念撮影。

  この当時も、そして現在も相応寺は、修験道当山派の拠点となっているようだ。遠藤ケ滝、そして不動尊の別当寺になっている。それは、大同2(807)年から、安達太良眉岳に650年中心寺としてあったという伝統によるものなのだろう。
 創建について、「徳一が建てたといわれている」というあいまいな言い方になっているが、これは確証がないからだろうか。
 しかし、少なくとも平安時代の中頃には、慧日寺は最も興隆をきわめ、支配権は新潟の一部まで及んだと言われているとのことだ。また、子院が3800坊とのことなのだから、相応寺が、その中の有力な寺の一つであったろうことは、状況的に理解できると思う。

 慧日寺を散策して、改めてその中興の師の故郷の寺である相応寺を眺めると、状況がかなり似ていることに気づく。
 その一つが、古くから山岳宗教が根付き延々と歴史を刻んできたであろうと推定できることと中心寺がかかわってきたことだろうか。

 まずは、山々を背景とする山岳信仰と祖霊崇拝の土壌が想起できる。連山が重なり神々が住む山々のイメージがしやすいという環境の中で、現在も山の神講は続いているという話も聞いている。
 次に、相王寺が不動尊の別当寺になっているなど、修行にはこれらの状況とかかわっていた形跡が想像できる。
 更には、御本尊が薬師如来であるもそうだ。

 あえて違いを見つけると、人々の心にこの薬師にかかわる風習や芸能が残っていない(知らないだけかもしれないが、)ことだろうか。
 慧日寺は中世期以降、薬師信仰に基づき、治病延命・産育・子孫繁栄を祈願する民間信仰の寺としても栄えたという。
 漠然と、それらの期待が持てるのは、この地区のように感じている。 
by shingen1948 | 2008-08-27 05:12 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)